「神子殿、お願いがあるんだけど」
うららかな昼下がりと言うには、いささか太陽の照り付けが強い日の事だった。
折り入った様子のリンドウに驚いて、ゆきは思わず居住まいを正した。
「はい、なんでしょうか」
「これから話すことは内密にして欲しいのだけど、守れるかな」
季節は冬なのに、これまでは蓋のように瘴気で覆われていたものが取り除かれて、一層陽光が眩しく感じられる。
少し目を細めてゆきは答えた。
「もちろんですが、…まさかまた怨霊が」
「違う違う。まあ、怪物だとは呼ばれているみたいだけれど」
「怪物?」
言葉通り受け取って身を震わせる彼女に、リンドウは微笑んだ。
震わせるだけでなく、すぐさま身を乗り出す姿勢も、今となっては愛しいものだ。
「お願いとは浄化ですか。私、すぐに行きます。瞬兄と都に…!」
「ちょっと待ってってば」
立ち上がろうとする少女の手を取って、畳に縫い付ける。そのまま、空いた手で口を塞いだ。
ゆっくりと彼女の呼吸が穏やかになるのを待つ。口を覆っていた手を離しながら人差し指だけ立てて、唇の前に置いた。
「内密にって言ったよね。大丈夫、怨霊ではないよ」
「では…なんでしょうか」
普段は鈍いと言っても良いくらいお役目一直線なのに、握られた手と間近な顔、たったこれだけの事で頬を朱く染めている。
この愛らしいひとを誰にも見せたくないという気持ちはあれども、一直線な彼女だからこそ出来る仕事でもあるのだった。
これから頼もうとしている事は。
「あのさ、慶くんを連れ出してきてくれない?あの人、今日でもう、三徹目なんだ」
「えっ!?」
「だけど、本人は全く休む気がない。疲れは判断を誤らせるし、倒れられても困る」
「そうですよね…」
「皆困り果てているよ。あの人、言うこと聞かないから」
「あの、3日って本当に?大丈夫なんですか」
食いついた。リンドウは上げた口の端を隠したまま、言い募る。
「大丈夫じゃないから、お願いするんだよ。ねぇ神子殿、慶くんを執務室から引っ張り出して休ませて。他でも無い君だから出来ることだよ」
「そうですか…」
しかし、ふと冷静になると気掛かりがあるらしい。ゆきが再び身を乗り出した。
「あの、幕府の方やリンドウさんだって説得出来ないのに、私の話を聞いてもらえるでしょうか」
「その点は大丈夫。君は幕府の人間じゃない。まして、この世界の住人でもない。相手が将軍の後見役だって気にする必要はないのさ。多少強引で構わないよ。ガツンとやっちゃって」
「はぁ」
「なに、気が進まない?分からないでもないけど。それなら仕方が無いから倒れるのを待とうかな」
酷い話だよねぇ、ある意味怪物扱いは間違ってないのかな。あっさりと諦めた風に一人で呟くと、慌ててゆきが言った。
「私、行ってきます。説得してみますから」
「ああ、優しい神子殿に漬け込むようで申し訳ないね。でも助かるよ」
「任せて下さい!」
始めから狙い通り、大体想像していた通りの反応だ。申し訳ないほどに。
最後の仕上げとばかり、大袈裟にリンドウは告げる。
「それじゃあ、早速宜しく。何とか城からは引き摺り出したから、今は一橋邸に居る筈だよ」
「はい!」
席を立ったゆきを見送る。
自分が仕掛けたとはいえ、何とも複雑な気持ちもあって、リンドウは苦笑とともに溜息をついた。
勢いやって来たのは江戸城。一橋邸は江戸城にある。
考えてみれば、ゆきはリンドウを伴わずに城に入る術を知らなかった。
物々しさに圧倒されていると、門の前に一人の武士が現れて声を掛けられた。
「龍神の神子様ですね」
「はい。蓮見ゆきと言います」
気軽に名乗るなと言うリンドウの教えも忘れて告げる。
「はは、その物腰間違いないですね。斉基様にお聞きしていた通りです」
「貴方は」
「私は一橋家の家令です。お迎えにあがりました」
何とも飄々とした感じの男だった。歳の頃はリンドウと同じくらいだろうか。
屋敷へ向かう道すがら、家令の名や出身地などを聞く。
「私は、水戸から付き従ってきた者ではないのです。内向きの仕事が多いので、それ程困ってはいませんが…」
「はい」
「今の殿に慣れるまでは苦心しました」
「そうなんですね」
「何しろ、お考えが全く読めないのです。先回りしてお世話するのが仕事なのに」
いやぁ、参ったと笑う。
「でもね、一つ分かったこともございます。あの方は、あれで押しに弱い」
そんな風に思ったことは無かった。
困惑が顔に現れていたのだろう。家令が言う。
「情が無いように言われますが、優しい方です。なに、神子様ならなおのこと。強くお願いすれば大抵の話は聞いてくださいますよ。さて、こちらです」
屋敷について、慶喜が篭っているらしい部屋の方を指すと、あっさり一礼して下がっていった。
強気に行けとは、リンドウも同じように言っていた。
改めて居住まいを正してから、息を吸う。
「こんにちは。蓮見ゆきです。入っても良いですか」
大きな声で言ったつもりだが、中から返事はない。
「あの、蓮見です。慶喜さ…」
もう一度、声をあげると中から小さく「入れ」と返ってきた。
「失礼します」
襖戸をあけると、部屋の中央に置かれた文机に向かうピンと伸びた背中が見えた。
文机の隣には山となった書類と思しき紙束やら巻物、書物がきれいに積み重ねられていた。おそらく左の山が未決済で右の山が決済済みのものだろう。左から取り上げた書簡に目を通した後、なんらかを走り書きすると右の山に積んでいく。見たところ、大分片付けたのか少しばかり左の山のほうが低い。
「何ようだ」
こちらには振り向かないまま、慶喜が声を投げる。
「慶喜さん、私と散歩に行きませんか」
唐突な誘いに、休むことなく動いていた手が止まる。たっぷり時間をとってから、おもむろにこちらに振り向いた。
「今なんと言った」
「一緒に散歩に行きましょうと言いました」
「いつも突拍子もないとは思っていたが、今日は格別だな」
「そうでしょうか」
「自覚が無いのか」
やり取りのあと、慶喜は大きなため息を吐いた。
「大方、リンドウに何か言われて来たのだろうが、余計な気遣いは不要だ。相手をする暇が無い。今日は帰れ」
そこまでは織り込み済みだったとばかりに、告げられる。ゆきが黙ったのを見届けて、再び文机に向かい筆を走らせはじめた。
ここで引いたら、今度はリンドウに大きなため息を吐かれるのがオチだろう。早くもゆきの立場は微妙になる。
「えっと…、散歩は嫌ですか。それなら、少し休憩して眠りますか」
返事は無い。
「慶喜さん聞いていますか。散歩が嫌でしたら、違う方法を考えましょう」
返事は無いが、再び筆を走らせる手が止まった。
「どうしますか」
「どうもこうも無い」
「それなら、私が考えましょうか」
「いい加減にしないと、すぐさま追い出すぞ」
「駄目です、ちょっと待ってください」
早くも堪忍袋の緒が切れそうな様子の慶喜に、ゆきは慌ててにじり寄った。
「邪魔してごめんなさい。でも、私の話を聞いてください。本当に3日も寝ていないのですか」
今日はじめて間近で顔を見上げる。目線を合わせれば、確かに目の下には色濃い隈が出来ているのがわかった。
「知らん。そのくらいは経っているかもしれんがな」
「倒れてしまいますよ」
「倒れたりはしない」
「そんなこと分からないじゃないですか」
「分かる。俺は倒れたりしない」
予想以上に、相手は頑固だった。そして、堂々と屁理屈をこねる。
「お願いです。少し休みましょう」
「断る」
「少しだけです。ちょっと横になるだけでも違います」
「断る」
相手も頑固だが、ゆきも大概頑固だ。言い出したら引かないところがある。
「体を壊したらどうするんですか。慶喜さんには責任があります、皆心配なんです」
強く言い切ると、再び慶喜がゆきの方を向いた。間近に顔を見合わせる形になる。
「…分かった。少し休もう。わざわざご苦労だったな」
「はい、良かった」
ようやく、休むことを了承した慶喜に、ゆきは安堵したように笑み崩れた。そのまま、笑みを向けて座ったままで居ると、目の前の人が居心地悪そうに言う。
「どうした、退出しないのか」
「え、なぜですか」
「お前は、リンドウに私を休ませろとでも言われてここに来たのだろう。私は休むことを了承した、それで終いではないのか」
「それは…そうですけれども」
じっと見つめると、ますます居心地悪そうに眉をひそめる。
「後は無用だ。早く戻って報告するといい」
「…慶喜さん。休む気ありませんね」
「疑うか。男に二言は無い」
「でも、嘘つく時の瞬兄にそっくり。急に聞き分けよくなるけれど、素っ気ない」
これには、慶喜も苦り切った表情をせざるを得なかった。
無言のまま、再び文机に向かう。
「あ、やっぱり。休まないじゃ無いですか」
返事をしない慶喜に向けて語気を強める。
「私、慶喜さんが寝るのを見届けるまで帰りません」
「駄目だ、帰れ」
「男に二言は無いと仰いましたよね」
返す言葉が無いのか、目線だけがゆきの方を向いた。
「こんな女人は初めてだ…」
「どんな女人ですか」
実に苦々しい表情で慶喜は溜息を吐いた。
「寝る。この場で適当に横になる」
腹を括ってしまえば、後は面倒だからその場に転がるだけだ。筆を置いてそのまま後ろに寝転ぼうとした時だ。
「あ、こちらにどうぞ」
ゆきが膝を差し出したのは。
「待て、神子」
「はい、何でしょう」
「その膝、どうするつもりだ」
「頭を置いてください」
一気に眠ろうという意欲が萎えた。
「一体どうしたら、そんな言葉が出てくる」
「え、だって祟くんが眠い時はいつも膝をかしてって言うから…。都も良く眠れるって」
リンドウと瞬が聞いていたなら、こめかみを引き攣らせたことだろう。
慶喜自身も、どんなに疲労したとしても滅多に無い目眩を覚えつつ、何度目か分からない溜息を吐いた。
「不要だ。退いてくれ」
「なくても眠れますか」
「いっそ、眠気も失せたがな…」
これは失言だった。気付いた時には遅い。
「そんな、膝を使って下さい」
「何故そうなる…」
「この方が良く眠れるって、祟くんと都が…」
言い返せば堂々巡りになると分かっている。しかし、言わない訳にいかない。
「冷静に考えろ。脚の上に人の頭などおかしいだろう」
「そうでしょうか」
「ならば言い換えよう。身内や子供ならいざ知らず、他人の男が…不気味ではないのか」
「確かに慶喜さんは身内ではありませんね。でも、不気味だなんて…」
思いません。と、ゆきは言い切った。
いざ、緊張感が途切れてからと言うものの、慶喜は眠くて仕方が無いし、この分からず屋の少女に言い聞かせる言葉が上手く浮かばない。
それならば…と、魔が差す。
「分かった。ならば膝を借りよう」
「はい」
本当に嬉しげに返事をするからたちが悪い。
半ばヤケになって頭を預けてしまう。少女の脚は細くて、お世辞にも寝心地が良いというものでは無かったが、女特有の柔らかさは感じられた。
(まったく…、何をしているのだ、俺は)
少しばかり根を詰めて働き過ぎたばかりに、こんな目に遭うとは。
男を慰めに来た女相手ならば、膝の上で如何様にも過ごしようがあるが、よりによって、これは神子だ。
龍神の遣わせた神子。
首謀者たるリンドウに舌打ちしそうになったが止めた。
恐らく、あの男もこんなことになるとは思っていまい。知られれば面倒に巻き込まれるのは此方である。
慶喜は、仰向けのまま眼を瞑った。こんなに眠いのに、眠りは訪れそうに無い。
「…慶喜さん」
そっと確かめるようにゆきが呼んだ。片目を開けて見上げる。
少女の双丘が真上に見えたが、控えめなそれに妨げられることはない。
表情を見るのに困るようなことは無かった。本当に、「少女」なのである。
「眠れませんか」
彼女の問いかけには応えず、腕で視界を遮った。昼間で明るかったということもあるが、一度見上げてしまった曇りない少女の顔を再び見るのは辛いように感じる。
ふと、腕に華奢な両の手が触れて退かされると、羽根のようにふわりと手のひらが目蓋を覆った。
「眩しかったんですね」
「お優しいことだ」
ごく自然な仕草に、思わず呟いた。
慶喜はそのまま続けた。
「それでは、眩し過ぎる」
告げて身体を傾ける。神子の腹の方に向きを変えて頭を俯ける。
さながら、母親に身を預ける童子のように、しかしその細い腰にまわしたのは間違いなく成人した男の腕だ。
まさか、腰を抱かれるとは思わなかったのだろう。ゆきは肩を揺らして身じろいだ。
だが、それも一瞬で、すぐにまた羽根のように柔らかい手のひらで目の前の頭を撫でる。
恐るべき順応性に慶喜が閉口していると、ゆきが笑った。
「急にどうしたんですか。これで、眠れそうですか」
少女の薄い腹から額を離して、再び見上げると、優しい微笑みにぶつかる。
やましいところなど、何も無いかのように。
事実、何も無いのだけれど、慶喜は何処か残念に感じてしまった。
「こんな女人は初めてだ…」
先と同じ言葉を呟く。言葉尻だけ拾ったのだろう。聞き返すように、ゆきが首を傾げた。
「膝を借りよう。…ありがとう」
飾らない言葉に、少女は満面の笑みで応えたのだった。