「公瑾はね、器用じゃないから。花ちゃん、宜しくね」
いつの日か言われた言葉の意味を、花はひとしきり仕事が片付いた夕方の執務室で考えていた。
ちらと横に視線を向ければ、机で書簡に向かう公瑾の姿がある。
世に名高い美貌は伊達ではなく、何をしていても絵になるひとだ。それなのに、どこか覚束ないことをする……不器用者だと小喬は言うのだった。
「何かご用ですか」
「は、はいっ」
突然声をかけられて、思わず肩が跳ね返事が上ずる。見つめていたことに気付かれたのだ。若干の後ろめたさも手伝って黙っていると、冷たい声音が返ってきた。
「それなら、申し訳ないですが簡潔にお願いします。時間が余り無いので」
別に、特に用もなくて驚いて返事をしただけだったのだが、何となく言われようが癇に障る。
「時間がないところ申し訳ないですけれど、私の方はそろそろ仕事が終わるので、何か……」
あれば手伝いますけれど、と続くはずだった言葉は、彼のため息に遮られた。
「そういう言い方をわざとされるのは、あまり感心しませんね」
「なっ、どういうことですか」
「なにか、貴女の癇に障ったのかもしれませんが、私は事実を簡潔に述べただけです。そのような面当てをされる筋合いはありません」
まただ。
大体このパターンなのだ。
彼は、本当に器用に人の言葉尻をとって詰ってくるのだ。正直、まだまだ人間が出来ているとはとても言えない花は、少し挑発的な物言いをされると、ついカッとなってしまうことも少なく無い。
そして、それは今日も同じなのだった。
「……申し訳ありません。邪魔しました」
腰掛けていた椅子から立ち上がり、一度も振り向かずに部屋を出る。やはり、同じく一度も振り向かないままに、公瑾が言った。
「ああ、きちんと扉は閉めていってくださいね」
頭は沸騰寸前になったが、何とか堪えて、わざと丁寧に扉を閉めてやった。
そして、ある日のお茶会の風景に逆戻りするのだ。
***
ある日の午後。女性だけのお茶会で告げられた小喬の言葉がずっと引っかかっていた。
彼は、呉軍の軍師であり、歳若い君主の頼りになる参謀である。
文武両道、琵琶の腕前は一級品であり、時々、性根を疑うような陰惨な策を弄したりもするが、概ね温厚だ。
基本、器用な性質と見るのが一般的だろう。
まあ、ごく稀に大小姉妹からの追求を交わし切れず、墓穴を掘ったあげくに結果、四面楚歌となることもあるようだけれど。
そして今日。
夕餉のあとのささやかなお茶会。
「もう、本っ当に頭きました!私、あの人にはついていけません」
怒り心頭と言った様子の花を前に、大小姉妹に尚香は顔を見合わせた。
「花ちゃんをここまで怒らせるって、公瑾の、ある意味才能だね」
「そうだね、おねえちゃん」
「花さん、一体どうしたのですか」
口々に、花への労りを口にしつつ、三人が理由を尋ねてくる。
そうやって、優しく問われると途端に自分が大人げないことをしたような気がして来て、花は少しばかり肩をすぼめた。
「それは、公瑾さんが……」
「あーあ、また喧嘩しちゃったの」
何気ない大喬の言葉が、耳に痛い。
「いつだったか、小喬さんが言っていた公瑾さんは不器用だっていう話。あれ、きっと違います」
机に突っ伏しながら花が言うと、小喬の変わらぬ声が返ってくる。
「そうかな。どのへんが違うと花ちゃんは思うの?」
「だって、いちいち私の言う事の揚げ足取るし、言い方が厭味だし。そもそも、他の人と私に対する態度が違い過ぎます。使い分けているんです。それのどこが不器用なんですか」
「そう、ですか……」
尚香が相づちを打つ。
「そうですよ。他の人にはニコニコして声も優しいのに、私にはすぐ文句ばっかり……」
「あらあら」
「困ったねぇ」
大小たちも、一様に頷くと花の顔を覗き込んだ。
「公瑾はさ、変なところで子どもっぽいところがあるから。そういうところが……なのかな」
「でも、それって花ちゃんのことが大好きだから、そういう態度をとっちゃうんだと思うよ」
「……そんなの、困ります」
今回ばかりは、花も相当にへそを曲げてしまっていて、ちょっとやそっとでは機嫌を直しそうもない。
「そうだね……」
小喬は、顎に手をあてて、ひとしきり考える振りを見せると、二度ほど頷いた。
「花ちゃん。これを機に、しばらく公瑾を観察してみようよ」
「え、観察……ですか?」
意外な言葉に、花が机から身体を起こす。
「どうせ、愛想を尽かすにしても、折角だから色々観察してみてよ。それで、ぜーんぶ公瑾に言うの。こういうところが厭ですって。確かに、普段何考えているのか良くわかんない顔しているしねぇ」
「確かに」
「ま、あ……そうかもしれませんね」
花は、小喬と彼女に同意する他二人の顔を見回した。
散々、自分が文句を言っておいてなんだが、あんまり公瑾を悪く言われると、それはそれで気になる自分に、花は舌打ちしたくなった。
責任を取って頂きたい。
だなんて、自分の世界に居たら考えられない、理不尽な大告白をされて。
それなのに、傍に居てあげたいだなんて思ってしまった自分が居て。
今も腹がたってしょうがないのは、やっぱり彼の事が気になっているからだと、自分が一番良く知っている。
「分かりました。私、しばらく公瑾さんのこと観察してみます」
だから、この辺りで一度冷静に。
自分と彼と、この先のことを考えてみようと、花はこの奇妙な提案に乗る事にした。
早速、三人と分かれて自室に戻ろうとしたところで、再度、小喬に呼び止められる。
「花ちゃん、宜しくね」
「はい?」
意図を汲み切れずに、どことなく疑問形になってしまった返事を気にする様子もなく、それだけ言って小喬は去って行った。
***
つまらない事で言い合って。大体は言い負かされる形で花が部屋を出て行ってしまう。
『公瑾さんの馬鹿!』
そんな捨台詞を残して。
だけど、元の言い争いの内容がくだらないのだ。
翌日には、お互い何も無かった様に振る舞って、元の位置に納まる。そんな案配だった。
しかし、昨日の今日で、彼女の様子はまるで違っていて、さしもの公瑾も声を掛けるのを躊躇ってしまった。
「おはようございます」
「ええ。おはよう、ございます」
笑顔というわけでもなく、不機嫌と言うのでもなく。
形はいつも通りなのだが、やけに静かで気配が乏しい。そのくせ、ふとした時に強く視線を感じるのだ。
(これは、かなり厄介なことになっているのでしょうね……)
立場やこれまでの経験上、人の機微を見る事に長けている……と、公瑾としては自負しているところがある。だがしかし、こと花に関しては出会った当初からちっとも、その心のうちを読み切れない。
それならいっそ、素直に気持ちを聞けばいいのだが、プライドやら何やらが邪魔するのか、何となく憚られて。結果、地雷を踏んで爆発させてしまうこと数限りなく。
それは、彼女の側も同じで、中々素直に本音を話さない自分を掴みかねているのだろう。思い裏腹にすれ違って、思わず強く言ってしまったのにへそを曲げ……傷ついて。
はぁ、と公瑾はため息をついた。
「花殿、私はこれから仲謀様のところへ行って参ります」
「はい、いってらっしゃい」
とりあえず、執務室を出る前に一声かけると、返事は返ってきた。ただ、声に抑揚はない。
「っ……」
何か、一言付け加えようと思ったが言葉が出ない。
どうしてなのか。彼女が相手だと、他には簡単に口に出来るような慰めが口にできない。
結局黙ったままで、部屋を出ようとしたところで椅子を引く音がした。
「花殿?」
それは、花が立ち上がった音で、彼女はそのまま扉に向かって歩いてくる。
「その、どちらへ行かれるのですか」
扉の前でぴたりと止まった彼女は、書簡を手にしていた。
「仲謀様のところへ。書簡を届けに行きます」
「それなら、私が行きますから書簡は預かりますよ」
すると、彼女はじっと公瑾の方を見上げて見つめてきた。
知らず、背に冷たいものが流れる。
「結構です。私が自分で持って行きますので」
「……そう、ですか」
これ以上、ここで問答するのは危険だと感じて引く事にする。そのまま扉をくぐると、その後ろに花が続いた。
***
「……ったく、いい加減にしろよ公瑾。一体何が言いたいのかはっきりしろ」
「さて、どういう意味でしょうか」
その後、仲謀の執務室でしばし時間を過ごしていると、突如、主が鋭い声を投げた。
「さっきから、何度ため息ついてると思ってるんだ、お前。何かあるなら言えよ」
「いいえ、何もございませんよ」
少なくとも仲謀様には。
公瑾は心の中で呟く。
「だったら、ため息ばっかりついてんじゃねぇ。気になるだろうが」
「申し訳ありませんでした。気をつけます」
しばらくして、子敬に呼び出され公瑾は仲謀の御前を辞した。
場には、書簡の決済待ちをしている花と仲謀が残る。
「仲謀……様は凄いね」
「何が」
「だって、公瑾さんにあんなにはっきり」
「あ、だって気になるだろうが。あんなにあからさまにため息つかれたら」
「でも、どうせ理由は言ってくれないでしょ」
さしもの仲謀にも、何となくだが公瑾のため息の理由は察しがついた。
「だから聞くんだろ。言えないんだったら、仕方がねぇけど。一度聞いとけば、こっちも何か気付くこともあるかもしれないし、あちらも何かあったら言い易くなるかもしれないしな」
「……」
「なんだよ」
「やっぱり、仲謀は凄いね」
「馬鹿にしてるのか」
花は否定して首を振った。
「私、そんな風に考えたことなかったかも」
仲謀は大きく息を吐いた。
「特に、公瑾は腹を割って話さねぇからな。自分の事。それで、知らないうちに取り返しのつかないことになったりするんだ。あいつ、分かっているくせに、そういうところを直しやしねぇ」
「そう、か」
呟く花を横目に、仲謀は筆を置いた。
「ほら、書簡出来たぞ」
「あ、ありがとう!っと、と。ございました」
「お前……。つっかえつっかえ言うくらいなら、敬語なんてやめちまえ」
「うん。ありがとう、仲謀!」
笑顔とともに、花も執務室から出て行った。
「なんで、俺には適当なんだよ」
どう考えてもおかしい申し出に、あっさり乗っかって笑顔で去って行くくせに。
それなのに、なんであの二人、つっかかり合っているんだ?
***
花は、自分の心がぐっと軽くなったのを感じた。あんなに苦しかったのに。
あらためて、公瑾を観察し始めると色んな事が分かった。また、少ないながら過去のやり取りを思い出しても。
(私、忘れちゃってたんだ……)
あの人は、全然完璧とはほど遠い。
賢いから、自分の難点は理解しているくせに、一向にそれを解決する方向には向けないでいる。
それで、悶々とずっといつまでも。それこそ数年単位で苦しんで。
放っておいたら、自分も周りも不幸にして、絶望のまま死んでしまいそうだなんて。
あんまりにも不吉な予感がしたから。
それに負い目を感じて、本当の自分を隠してしまっているように見えたから。
私と居れば、少しだけでも背負い込んだ重い荷物を軽くできると言ったから。
その日の分の書簡をまとめて、棚に収めると、花はそのまま執務室で公瑾を待った。
気付いたなら、さっさと伝えて元通りになるに限る。やっぱり、紆余曲折があったとしても彼の事が好きだから。こんなやり取りは続けたくない。
やがて、大分夜が更けてから公瑾は執務室に戻ってきた。
「おかえりなさい。公瑾さん」
「ただいま帰りました」
昼間より、幾分か語調が和らいでいるのに、公瑾は胸を撫で下ろす。
「こんなに遅くまで。どうされたんですか」
「公瑾さんを待っていたんです」
「……明日も朝が早いというのに。なぜ、そんな無駄なこと」
言いかけて、公瑾は口を噤む。
また、余分なことを言って地雷を踏みそうになったことに気付いたのだ。
しかし、花は苦笑しただけで言葉を継いだ。
「ごめんなさい。でも、どうしても今日中に公瑾さんと仲直りしておきたかったんです」
「何を……です」
また、いらないことを言ってしまう。
これは、公瑾の悪い癖だった。
先に、先に。相手の言葉尻をとって、出方を伺う。己を脅かすものに蓋をするために。
考えてみれば、伯符に対しても、そんな話し方をしていただろうか。
「私、耳から聞こえる言葉ばかり気になって、本当に公瑾さんが言いたい事、考えていませんでした。だから、ごめんなさい」
「そんな、あなたに謝って頂く必要など……」
違う、と思った。
だけれども、こんな言い方ではまた彼女に誤解されてしまう。どうしたら、心のうちを素直に打ち明けることが出来るのだろう。
「違うんです。美辞麗句など、言おうと思えばいくらだって言えるはずなのに。貴女には、本当の気持ちを伝えたいと思えば思うほど……」
拳を握りしめる。
「言葉が上手く紡げない。おかしなことを言ってしまいそうで、心にも無いことを言ってごまかしてしまうんです」
花の方を見遣れば、彼女は静かにこちらを見つめていた。その、こぼれ落ちそうな綺麗な瞳に、少しだけ勇気を得た。
「だから、謝るのは私の方でしょう。貴女にはいつも辛い思いをさせています」
一気に告げて。彼女に近づく。
花は、彼を見つめたまま逃げなかった。
そのまま、手を伸ばし柔らかそうな頬に手のひらを当てようとして手が止まる。
「どうしたんですか?」
「いや……」
琵琶をたしなみ、細く美しい指だなどと、いささか武人には嬉しく無い褒め言葉を受ける事もあるが、それでも結局は武人の手。
その手のひらは荒れて、彼女の柔らかな頬を傷つけてしまいそうだと思った。
「手、貸してください」
躊躇う公瑾に、花が言って手をとる。
「驚きましたか。お世辞にも、綺麗な手とは言えませんから」
「そんなこと無いですよ。公瑾さんのこれまでの歴史が全部この手のひらに詰まっているんですから」
花が、一度言葉を切る。
「それは、生きている中で色々とあったかもしれませんけれど、これは今の公瑾さんの手です。私は大好きですよ」
言って微笑む。その顔を見ていられなくて公瑾は目をそらした。
「公瑾さんは裏腹なんですね。いつも、この手の甲と同じ様に何でも無い綺麗な手だと思われたり、思わせたり。本当は、この手のひらみたいに、色々と感じていることがあるのに」
「花……」
こんな時ですら、上手く言葉が継げない自分が情けなくて。公瑾は舌打ちしたい思いを堪えた。
こんなにも、自分を奈落の底から救いあげる。彼女の笑顔が好きなのに。それに対して何も上手い言葉が思いつかない。
好きで、好きで。
苦しい胸の内を伝えなければと思い詰めた末に出た言葉が『責任を取って頂きたい』だったのだから、今思い出しても頭を抱えたくなる。
「申し訳ありません。でも、信じてください」
また、言葉は裏腹に。
「私は、どうしようもなく、貴女が好きなのです。それなのに、どう伝えたらいいのか……」
「大丈夫です。伝わってます」
花が、満面の笑みで言った。
「分からないときは、聞きます。だから、怒らないで教えてください」
心に清涼な風が吹き抜ける。
そうなのだ。彼女といると、忘れていた風が心を吹き抜けて淀んでしまった胸の内を少しばかり浄化されるような気がするのだ。
多分、すぐには変われはしないし、辛い記憶もぬぐい去れないだろう。
それでも。
「確認しますが、貴女は責任を取って私に付き合ってくださるんですよね」
ここでも、自分が恥ずかしいことを言っているとは自覚している。だが、もう一度聞いておきたかった。
花は、その言葉に驚いた様に目を丸くすると、一転破顔した。
「はい、もちろんですよ」
胸が締め付けられて。返す言葉も無くて。
ただ、公瑾は彼女を抱きしめた。
いつかきっと、こころは満たされて。
二人の間に、穏やかな風が吹く日が来ると。
◇◇◇
幸せは毎朝やってくる
目覚めると顔があった。
眼前で瞼を伏せて寝入る姿は、陶器のように滑らかで冷たそうな肌と、その顔を右と左に分ける高く真っ直ぐに伸びた鼻梁によって、一種の芸術めいて見えた。
時折、目の中に入ってしまわないだろうかと心配になるくらい、女子高生なら誰でも感嘆するだろう長くて豊富な睫毛が呼吸に合わせて少し震えた。
起きる……、いや、起きている。
「無遠慮に見つめないでくださいませんか」
やはり、起きていたらしい。
呉軍の優秀かつ秀麗な軍師殿が目を開けないまま告ぐ。
「さしもの私も、この近距離で見つめられると困惑します」
「そんなこと言われても、この距離に顔があるんだから仕方が無いです」
花が負けじと言い返せば、パチリと目を開いた。
「確かに、貴女のおっしゃる通りです」
じっと見つめ返されると、困惑するのは少女の方だった。
世間の口の端に当然の如く挙がる衆知の美貌は、花を赤面させるには充分過ぎる。
「あの、公瑾さん?」
急にそわそわし始めたのを見て、公瑾は柔く微笑んだ。
「反対側を向いたらいいのではないですか?」
「は、はい。そうですね……」
言われて、モソリと向きを変える。ふと、いささか冷たいのではないかと、一寸怒りが沸いてすぐに意気消沈した。
(ただ、顔を見ていたかっただけなのに)
ただ、穏やかに眠る姿を確認したかっただけ。
(あんな風に言い返さなければ良かったな……)
再び意識が遠くなりながら、ぼんやりと考えていると、それを助長するように温もりが背に沿う。
温かく大きなかたまりが、ピタリと背に貼りついて、腕が腰に回ってしっかりと固定されている。
「あの……」
「これなら離れずに居られるでしょう。寝なさい、花……」
背中から響いてくる声と心音が心地好い。
それに返事をしたか否かは記憶の靄の中に沈んで、花は瞳を閉じた。
【終】


