全てを終えて、江戸を後にする迄の束の間のこと。
連日連夜の書き物に、昼間は神子殿のお供。
疲れていたし、油断もあったと思う。

「…ウさん、…ドウさん。」
遠くて近いところで声がする。

「リンドウさん!」

唐突に、呼び声は鮮明な響きをもって頭を直撃して一気に覚醒する。目を開けてゆっくりと正面に視線を移すと、鼻頭がくっつきそうな程近くに、ゆきが居た。

「おはよう?神子殿…。」
「はい。」

応えたまま、ゆきは動かず、じっとこちらを見つめている。文机に片肘をついたままのリンドウの真正面に正座した格好だ。

何となく居た堪れなくて、憎まれ口をたたいた。
「こぉら。女の子がそんなに殿方の顔を見つめるものじゃないよ?」
「あ、ごめんなさい?」
分かったような分からないような返事をするゆきを横目に、照れるし、と小声で呟いてしまったのは不可抗力だ。

さり気なく装って顔を離したあと、それで?と目線で問えば、
「お庭を見に行こうと思ったので。一緒にどうですかと思ったけれど、やめにします。」
と言う。
「なんで?」
「リンドウさん、疲れてるもの。ちゃんと休まないと駄目ですよ。」
まさか、ゆきにそんなことを言われるなんてという思いが顔に出ていたのだろう。
「私は、もう大丈夫ですよ。」
と、ゆきが重ねて言った。
「それで、ゆきはどうするの?僕を置いていっちゃうの?」
「ん、そうですね…。」
考えるゆきを良く見てみれば、髪は降ろされていて、頬はほんのり上気して赤い。
服装も、昼間の神子の装束をといて、薄手の着物に羽織りを引っ掛けただけだ。
「ゆき、その格好…。」
「あ、ごめんなさい。先に、お湯頂きました。」
「うん。そこじゃなくてさ。」
いつもなら、一から十まで言って聞かせるところだけれども、どうにも頭が回らない。
一瞬気が遠くなり、ガクンと文机についた肘がズレて顎が手のひらから落ちた。
「……眠い。」
「大丈夫?リンドウさん。」
頭の上から声がする。
「もう駄目かも。」
「それじゃ、今日は早く寝てくださいね。おやすみなさい。」
あっさりと言いおくと、ゆきは立ち上がった。
それは無いんじゃない?と、回らない頭が残った力を総動員して騒ぐ。通り過ぎようとして目の前を舞う絹の裾を掴んで訴える。
「嫌だ、寝たくない。」
「どうして?まだお仕事残ってるんですか?」
引き止められて、ゆきは再び目線を合わせて問いかけてきた。
「違うよ。僕、ひとりじゃ寝られない性質なんだよね…。」
「え?」
言葉を受けて、ゆきが一瞬固まる。期待を込めて見つめると、神妙な顔つきで言う。
「えっと、どうしたらいいですか?小栗…、慶喜さん?」
「ちょ、何で慶くん?と言うか、君困った時に思いつくのは慶くんなの?」
それは許せない、とばかりに目の前で膝立ちしているゆきの肩を両手で掴んだまでは良かったが、やはり力が入らない。
「眠い…。」
「もう…、リンドウさん。やせ我慢して。」
優しい手のひらが頭を撫でた。
「私、女中さん呼んできますね。」
「ヤダ。」
「リンドウさん。」
困ったように、ゆきが少し声音を強めた。
「ね、ゆきが一緒に居てよ。」
「え?…きゃっ。」
返事を待たず、そのまま後ろに倒れこんだ。ゆきを胸の上に抱きこむ。
「温かい。これでいいよ。」
「これでって…、離して下さい!」
小さく暴れる身体を強く抱き締める。
「おやすみ。」
「…もう。」
意外にもあっさりと。
観念したのか、ゆきは暴れるのをやめて胸に頭を預けてきた。
「今日だけですからね。」
小さく呟くのが聞こえる。
「ヤダ。言ったでしょ、ひとりじゃ寝られないって。」
「リンドウさん、小さい子どもみたい。」
「うん。」
「でも…。」
ゆきが、腕の中でもぞもぞと向きを変えた。背中から抱き締めていたのが見つめ合うかたちになる。
「その…、今までどうしてたの?」
「え?」
「ひとりじゃ寝られないって、その…。」
真っ赤になって俯いている姿を見て、思わず吹き出した。
「リンドウさん、ひどいです…!」
「気になる?」
「なります!」
それは、君が僕に興味を持っている徴し。
嬉しくて胸が熱くなる。
「大丈夫。」
もう一度大事に抱き締めた。額から手をやって髪を梳いて頭を撫でれば、目の前の愛しいひとが気持ちよさそうに目を細める。
「眠れなくなったのは、ゆきのせいだから。後にも先にも、君無しじゃこんなことにはならないよ。安心して?」
「…、私だけ?」
「ゆきだけだよ。」
「良かった。」
ちょっと複雑な顔をしていたが、すぐに花のようにほころぶ。そういうの反則だから、と呟けば不思議そうに目を瞬く。
可愛い。

可愛いいんだけど。
「眠い…。」
「おやすみなさい、リンドウさん。」
「うん、おやすみ。」

まあ、たまにはこういうのも。

 

【終】

(2012-04-07up)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

Post Navigation