溜め息ばかりが続いていた。

結局、彼女を引き留めることは叶わず。
龍神の神子は、己の世界へと還った。
短い期間ではあったが、片時も離れず側近くに居たから勘違いしてしまっていた。

本当は、一番遠い存在だったのに。

あと少しで全部忘れてしまえるのに、どうしても日常生活に所々残る彼女の痕跡を消し切ることができない。

際たるものは、庭の睡蓮だろう。
今や、散ること無く咲き誇る花を嬉しく思う一方で、やり切れなさも感じるのだから酷い話だ。

そして今夜も。 生活から抜けなくなってしまった、夜の散歩を経て池の前に立ち尽くしていた。

どうしたことだろう。
きちんと上手くやりおおせたのだ。
神子はこの世を救い、僕は神子を気に入ったけれど…彼女を惑わすことなく元の世界に還した。
これ以上の結果はない。

「どうした。入水でも謀るつもりか」

よく通る声が闇に紛れて耳に届く。聞き間違えるはずもない。

「いいえ、一橋公」

神子の尽力の甲斐あり、今や次期将軍の座を確固たるものとした従弟…一橋慶喜が其処にいた。

「こんな時間にどうしたんですか」
「なに、この時間と場所が一番違えることなくお前をつかまえられるのでな」
少し皮肉混じりの言葉に苦笑する。
「御用件は?」
「大した話ではないさ」
言うと、彼は一度言葉を切った。
「上洛する。明後日だ、供をせよ」
「いや、大した話でしょう」
「それはすまなかった」
半ば確信犯だったのだろう。慶喜の口の端が上がっている。
「この花も見納めだな」
「残念に思う?」
「少しは、な。だが、これ程咲き誇っているのだから心配はないだろう」
いつの間にか隣にやってきて、目が合う。
「未練があるのは、お前のように見えるが」
「直球だね」
僕の返答に、慶喜…慶くんが笑う。
「何が、お前を縛るのだろうな。運命は鎖などでは無いと神子が証明しただろうに」
応える言葉が無くて黙っていると、慶くんはそのまま続けた。
「愛情だとて、人を縛るものではない」
「愛情って…」
反論しかけて止める。
今の自分に、彼へ喰ってかかるだけの用意はない。
「…忘れてしまえばいいんだけどね」
自嘲気味に言えば彼が続ける。
「忘れる必要なんてないだろう。過去など一つ消したところで、すぐに次の傷がつく」
言い切る彼に苦笑する。
「君は強いね」
「なに、諦めがよいだけだ。もしくは、その反対だろう」
どっちなの?なんて、言葉をかわすうちに、少しばかり気が楽になった。
「慶くんは、神子殿と少し似ているよ」
「ならば、お前には願ったり叶ったりだろう。黙って着いて来い」
「なんて傲慢な上司だろう」
言った後ひとしきり笑う。
目尻に浮かんだ涙を拭いつつ確認の言葉をついだ。
「えっと、明後日だっけ?」
「ああ」
それだけ言うと、慶くんはもう踵を返していた。
再び苦笑しながら見送れば、思い出したように慶くんが振り返った。
「別に江戸の邸を片付けろとは言っていない。その花も好きにしろ。俺は預かり知らぬことだ」
「うん。分かってる」
妙に気の回る彼のことだ。自分の身辺はさておき、何らか手は打ってくれたのだろうし、僕自身もまだ決めかねていた。
「気が済むまで好きにしろ。神子の記憶はお前を地に縫い止める為だけではなかろう」
「ほんとに。その通りだ…」
ゆっくりとでも着実に、時間は過ぎて行く。
記憶は風化せずとも、思い出に出来る時はくるだろう。

今は少しばかり身に沁みるけれど、幸い孤独を感じる暇は無い。

「京に着いたら、僕は庭に面した部屋にしてよね」
「お前は、自邸があるだろう」

切ないばかりの想いは、いつか遠く記憶の彼方へ。
ただ、その事実だけを刻んで。

 

【終】

(2013-02-21up)

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