ゆきが、当代将軍たる徳川慶喜に針の指南を受けていると聞いたのは、ある日の江戸城でのことだった。
「どうしてそんなことになってるの?」
「そりゃぁ、俺に聞かれても分からんぜ」
「そもそも、何で龍馬くんが知ってるの?ここに居るの?」
「ちょ、ちょっとお目付、質問は一回に一個にしてくれって」
妙な話を、何故か江戸城に出入りしている坂本龍馬から聞き、リンドウは何度か目を瞬いた。
(慶くんから針の指南?)
話が素っ頓狂にすぎて、さしものリンドウも頭がついていかない。
確かに、最近勝手に慶くんがゆきを呼び出しているのは知っている。
許しがたいと抗議してからは、一応リンドウの耳にもゆきの登城についての情報は入ってくるようになった。
しかし、何をしているかと思えば……。
何となく面白くない気持ちが募り、龍馬を廊下に置き去って向かうは将軍の執務室である。

***

文机に向かう慶喜の目の端には、先ほどから刺繍に励むゆきの姿が映っている。
こうして針を進める様を見るのは片手では利かないが相変わらず運びが拙い。
気にしなければ良いのだが、ゆきが度々針を指にさしては「あっ」と声をあげるものだから、
どうしても気になってしまうのだ。ため息を吐き、筆を置く。
「相変わらず、拙いものだな神子。少しは上手くなったのか」
あきれた様に言う慶喜に、ゆきが苦笑する。
「以前と比べたら大分針目は綺麗になったと思うんですけれど」
はにかんで首を傾げる様に、慶喜もつい微笑した。
「見せてみろ」
ゆきの肩越しに、その手にある角枠を覗き込む。
「ああ、なぜそこに針を刺す。こう糸を揃えて……」
器用に短い針と糸を操る当代将軍を見つめていると、廊下の方で大きな足音がした。
数秒も立たぬうちに襖が開かれる。
「御前失礼仕りますよ」
慇懃無礼に、執務室へ乗り込んで来たのは勿論リンドウである。
ゆきの背後にぴたりとくっついた慶喜の姿を確認するや、間に立って引き離す。
「ああっ、そんなにくっつかないでよ!何してるの?」
「えっと……」
ゆきがとっさに角枠を後ろ手に隠す。
「リンドウ、許し無く将軍の居室に乗り込むとはいい度胸だ……死罪にするぞ」
ゆきが、駄目と首を振る一方で、慶喜の恫喝にもリンドウはどこ吹く風である。
そもそも、ここに至るまでの経路で、彼を通した幕臣達も幕臣達なのだが。
ここで問答しても無駄であると悟り、慶喜は言葉を継いだ。
「見ての通りだ。神子が刺繍をしているのだが、拙くてな。やむを得ず指南しているまで」
「そこが疑問なんだけど。慶くん、刺繍なんて出来るの?」
「お前の懐から見えている巾着だが……」
「ああ、これ?ゆきが作ってくれたんだよ」
喜色満面のリンドウを睨みつけて慶喜が言う。
「それも、私の指南だ」
「ええっ!?」
おずおずと膝を進めると、ゆきが言った。
「以前、登城した時にたまたま教えて頂いて…。
慶喜さん、色々お上手なんです。お針も得意だけど、釣りも上手いんですって」
「慶くん……」
リンドウが幾らか気落ちした風に言った。
「君、将軍だよね?」
「間違いない」
「どうして?」
「分からん。何をやっても私は上手いぞ」
どうだ?とばかりに言ってのけたが、当のリンドウの反応が鈍い。少々気まずくて言い足す。
「まあ、刺繍は母上が得意とされていたのでな」
「だからと言ってもさ……」
複雑な顔で、リンドウは手元の巾着と慶喜の顔を見比べた。こうなると何とも興も削げる。
「おい、執務を終えたなら神子を連れて退出してよいぞ。大義であった」
言われなくても、と憎まれ口を叩くリンドウをチラと見たゆきが慶喜を見つめる。
「色々ありがとうございます。もっと上手になったら御礼に何か作りますね」

***

微笑みと喧噪を残して二人が去った居室で再びため息をつく。
龍神の神子には少なからず感心がある。
自身の命令にも関わらず、江戸に残ったのをこれ幸いにと城に呼び出して見れば、
然るべき時に向けてと針の練習をしているという。
誰に吹き込まれたやらと思い静観していれば拙くて見ていられない。思わず手を伸ばしたら今の有様である。
よく考えずとも大分道が逸れている――――――――
神子が嫁入りの為に苦心している針を手解きしてやり、他方では面倒な神子の想い人を導いてやる……。
これでは、まるで神子の母親のごときだと思うが、今更か。
神子に針を教え始めてから、ごくごくたまに手に取る角枠を眺めた。
刺繍などと思うが、意外と精神統一には良いものだ……と自分に言い聞かせてみる。
そして、刺繍もそうだが、ほとほと自分の器用さには嫌気がさす。
もっと不器用なら、率直に思いを口に出来ただろうか。
しかし、神子が江戸に居るうちは幾らでもやりようがある。
慶喜は、そう自身に言い聞かせて、とりあえず溜飲を下げることとした。
押しの強さでは天下一品なのだ。
まだまだ、勝負はこれからである。

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