何年ぶりだろうか。
無茶を重ねてもよく保っていたはずの身体が、ついに反旗を翻したらしい。
どうもこれは風邪だろう。
最近は幕府の仕事と龍神の神子のお伴と二足のわらじを履いていた。
正確には、御奉行のお伴というのも仕事のひとつか。
しかし、多分原因は仕事量でも内容の苛烈さでもなく、単に心労が自分を弱くしているらしい。
邸の自室で臥せっている自分を他人事の様に分析する。
朝、いつものように自邸に集う龍神の神子一行に、同行出来ない事を告げた。
皆一様に、仕方が無いなぁと言うと簡易な見舞いの言葉を残して日課の怨霊退治に出て行った。
ただひとり、龍神の神子だけはどこか落ち着かないように目を揺らしていたが、そのうち「安静にしていてくださいね」などと、まるで医師の助手のようなことを告げて出て行ったのだった。
彼女達が活動し始めてしばらく経ち、江戸でも随分と評判が広がった。実質、自分が居なくても妙な厄介ごとでも起こさない限りは困る事など特には無いだろう。
ふとこみ上げるものに咳き込む。
思いのほか、体調は悪いらしい。
このことを知るのは、上司たる御奉行と龍神の神子一行だけだ。
目付という職業や自身の立場から、病を得ただとか、こういった事は外に漏らす事は無い。
今回は、神子一行に知られている分、随分と知れ渡ってしまった方だ。
(ほんと、嫌になる・・・)
情けないが、龍神の神子が自身の心労に大きく関わっているだろうことは明白で、恨み言のひとつも言いたくなった。
怒りを抑えようと目を瞑って深呼吸を繰り返す。束の間の暗闇に、知らぬうち意識を引き取られていったようだった。
冷たい・・・。
次に目が覚めた時に感じたのは、額の上にある冷たい手拭いと、誰かの視線。
目線を上げると、傍らに龍神の神子が佇んでいた。
「君、なんでここに居るの?」
知らず、問う声が冷たくなる。
「あの、リンドウさん体調が悪いみたいだったので看病しようと思って」
「そんなこと君がする必要ない。怨霊の浄化はどうしたの」
「今日は、終わりです。本当ですよ、都が今日はもう気配を感じないって」
最初は、詰問するような口調に動揺したりもしていたようだけど、最近では慣れた様に返してくる。
思わずため息をついた。
「ここには誰も入れないように言ってたのに。主の言いつけすら守れないのか」
家人たちを思い浮かべて悪態をつくと、神子殿が困った様に言った。
「ごめんなさい。私が黙って入ってしまったんです」
「ああそう。随分と良い躾を受けているみたいだね」
「・・・ごめんなさい」
眉根を寄せて、謝罪する神子殿を見上げると、靄のかかりつつある頭を振って問いかけた。
「それで、何の用?僕に用事があるんでしょ。それとも・・・」
少し口の端を上げて言う。
「この機に、何か取引きでもしたいの?僕にも出来る事と出来ない事があるし・・・」
言葉を続ける病人をよそに、神子殿の手が伸びてくる。
一瞬、身がこわばった。
何も出来る筈が無い。何も・・・。
その手は、額に置かれた手ぬぐいをとると、傍らの桶に沈めた。
何も無かった。何も・・・。
詰めていた息を吸い込むと、また咳き込んでしまう。
慌てた様に、神子殿が押しとどめるように上掛けに手をやった。
「リンドウさん、あんまり喋っちゃだめです。寝ていてください」
咳が止まらないのを見て、神子殿が言う。
「あの、お水を」
「大丈夫、後で持ってこさせるから」
今更、何を疑うのだろう。この神子に裏も表もないことは嫌になるほど承知しているのに。
それでも、浴びせ続けられた辛辣な言葉の数々に、彼女なりに気付いたところがあったのだろう。
少し悲しげに微笑むと、手を引いて目を伏せた。
「ひとつだけお願いがあります」
目を伏せた神子殿は、きちんと両手を膝の上に置いて言葉を継いだ。
分かっていたことだったのに、少しの落胆が胸を苛む。
やはり、彼女も同じなのだ。
打算の無い親切などあり得ない。
だからと言って、訳無き善意も気味が悪いが。
「なに?言ってみて」
「今日は一日、ちゃんと寝ていてくださいね。明日には治るように」
なるほど。殊勝な言葉は、これまでにもかけられたことはある。
真実はともあれ。
「そうだね。なるべく意に添えるようにするよ」
「お願いします。リンドウさんが居ないと、色々と困るので」
「そうかもね。善処する」
答える僕を見て、神子殿は少し考える様に目を瞬いた後、再び言葉を継いだ。
「あの、これは私のわがままなので。ごめんなさい」
「君に謝られるような心当たりがないけれど」
「その・・・」
見上げた目と目があった。
「リンドウさんが隣に居てくださらないと少し不安で。風邪で辛いのはリンドウさんなのに。ごめんなさい」
言うに事欠いて。
「どうして?僕が居なくても八葉がいるでしょう」
「そうなんですけれど。私も、よく分からないんですが・・・」
思わず、俯いた目の前の神子殿に手を伸ばす。
頬に触れると、己の手が熱いせいか、ひんやりと感じられた。
「それで、君自ら看病に来てくれたの?」
「・・・はい」
こんなのは初めてだ。
こんな行為は知らない。好意もだ。
「それなら、もう少しつきあってくれる?」
「で、でも。そろそろリンドウさん、寝てください」
熱で朦朧としているからだろうか。冷たい頬を撫でた。
びくりと、神子殿が肩を震わせる。
『旦那様、お加減いかがでしょうか』
機を図った様に、襖の向こうから女中の声がした。
「冗談だよ。女中も来たし君は下がって。風邪がうつったら大変だ」
目の前の神子殿はまだ瞳を揺らしていたが、こくりと頷くと立ちあがった。
微笑んでやると、彼女も微笑む。
「それじゃあ、ちゃんと寝てくださいね」
「分かったよ。神子殿」
女中と入れ替わりに出て行く彼女を見送ると、再び床に身体を沈ませる。
「水、持ってきてくれる?」
「はい、かしこまりました」
誰も居なくなった部屋は静寂に包まれた。
その中で、やけに心臓の音が響く。
あんなこと言われるとは思わなかった。
神子殿の言葉が理解できない。
僕は知らない。
こんなのは知らない。
だけど、早く直して明日は彼女に付き添ってやろうと、ただそれだけは心に誓った。
【終】
(2012-08-5up)