うだるような熱い夏の午後だった。

「お外に出ると、少し涼しく感じますね」
「そうだな」

この日、江戸城に龍神の神子を召した慶喜は、政務の間に神子の世界の話をするやら、神子の手習いを世話するやらと一時の逢瀬を楽しんでいた。
小煩い星の一族の従兄君は、用事を言いつけて使いに出したばかりである。
神子に対して不思議な執着を持っている慶喜だが、それが過度なものでは無く、大抵がリンドウの仕事終わりを待つ間に神子と話をして、リンドウが戻るやいなや暇を許すと言った態度を崩さなかったこともあり、周囲も特段とこの逢瀬に神経を尖らせる事は無かった。

今日もひとしきり仕事を片付け、後はリンドウの帰りを待って神子は帰そうと考えていたところだった。
いつになく残暑は厳しく、座敷の奥深くにこもっていたのでは、どうにも暑い。
襖から障子まで、戸という戸を外して、だだ広い江戸城にあっては風の通りも良い方だろうが、涼を求めてふらふらとやってきたのは、本丸を過ぎたあたりの奥まった庭だった。
大きな池には、ささやかだが小川が流れ込んでいる。
「慶喜さん、ちょっと池の傍まで行ってきていいですか?」
「落ちぬよう、気をつけろ」
苦笑しながら返事をしてやれば、それは嬉しそうに神子は微笑み縁側から庭へ降りた。
こういうとき、彼女は年相応の愛らしい少女に見える。それは、神子であったとしても何も変わらないのだ。
城中、詰め所近くだからか、いつもなら厭になるほど連なる護衛も今日は少ない。
水遊びに興じる少女を眺めて過ごすなど我ながら暑気にやられたとしか思えない所行だが、悪くないと慶喜は一人ごちた。
やがて、神子がこちらを振り向いて手を振る。見ているとそれは招く手つきに変わった。
腰を浮かしかけて、また考える。たかが17歳の娘に手招かれて歩み寄る将軍というのも滑稽な姿だろう。
だが、悪くない。
「どうした?」
「ほら、見てください。大きな鯉がいます」
「・・・鯉など、昔からずっと居るぞ」
「私、初めて見ました」
「鯉を初めて見たのか?」
「いいえ、鯉は見た事あります。でも、こんなに大きいのは初めてみました」
「そうか」
「すごく綺麗ですね。私、鯉って黒か金色しか居ないと思っていました」
「そう・・・か」
噛み合っているようで噛み合ない会話をしていると、神子はその場に座りこんでしまった。
「ここは、水が近いせいか涼しいですね。少しここに居てもいいですか?」
居る事はやぶさかではないが、如何せん、庭の真ん中に座り込んでいるというのはさすがに不謹慎すぎる。
慶喜が答えあぐねていると突然小さな悲鳴があがる。
「きゃぁっ」
「っ、神子!?」
池の中の鯉が跳ねて水を飛ばす。慌てて神子を見れば背けた顔の左頬に水の玉がいくつも浮かんでいた。
「大丈夫か、神子」
「は、はい。驚いただけです。冷たくて気持ちいいくらいです」
何を誇るのか、拳を握りしめてにっこりと笑いかけてくる。
慶喜は軽くため息をついた後、手を伸ばし、神子の頬を拭った。
神子は、びくと肩を震わせるが抵抗はしない。身体はきちんと首元に手をやられた時の反応をしているのに、そこに警戒心が無いのはどういうことだと言いたい気がしたが、今は口をつぐむことにする。
「まだ、ここに居るのか?」
「・・・あ、もう少しだけ居てもいいですか?」
「仕方が無いな」
見上げてくる神子に微笑みで承諾をする。しかし、見上げた空に雲が増えてきていることが慶喜は気になっていた。
「後少しだけだ。雲が集まってきているから雨が降るかもしれん。ここは少し母屋から離れているから戻るには・・・」
「あ・・・」
遠くで雷が鳴る。
「来るな・・・」
言うや否や、急速に黒い雲が集まりどんどんと空は暗くなる。
そして、あっという間に空を覆い尽くした雨雲は大粒の雨を落とし始めたのだった。

あまりの雨の強さに、まともに目を開けているのも難しい。
「やむを得ん。こちらだ」
両手を胸の前で組み、立ちすくむ神子に手を伸ばす。ちらと見やると、その手はすぐに絡められた。
しばし庭を歩き、たどり着いたのは庭の中程に設えた東屋だった。
夕立であろう。1~2時間をここで雨宿りするのはやぶさかではないが、出来れば早く屋内に戻りたい。
だが、如何せん母屋から離れすぎている。
「っくしゅ」
案の定、小さなくしゃみが聞こえた。
全身ずぶぬれになった神子は、雨に打たれて毛が張り付いた白い猫か何かのようだった。
しばしすると、のろのろと手を伸ばし、装束の水を絞りはじめる。
ひとしきり自身の装束の水を絞り終えると、こちらを向いた。
「慶喜さん、着物は・・・?」
言うや否や、手を伸ばしてくる。さすがに面食らって押しとどめた。
「よせ、お前がそんな真似をする必要はない」
「でも・・・」
「気にされずとも自分で済ませた。これでもこういった事は得意でな」
「あ・・・」
笑みを向けてやれば、何か思う所があるのだろう神子も微笑む。
「まあ、俺は万事がこなせる男だと自負している」
「ふふ、そうでした」
言っている事は、ささやかな男の意地っ張りか傲慢にも聞こえかねないのに、それに答える神子の声は甘い。
媚びているわけではなく、ただそのままに受け止めて柔く相手を持ち上げるから心地よい。
だからだろう。彼女に話しかけずにいられないのは。
「っくしゅ」
再び、小さなくしゃみが聞こえた。
蒸し暑い夏の日とは言え、全身に水を被っては身体が冷えもするだろう。
「神子、これを被っていろ」
羽織の下にまとっていた衣を手渡した。それなりの反物で織られた衣装を重ね着しているのだ。重ねの下はそれほど濡れてはいない。
「男の重ねていた衣など不満はあろうが堪えろ。水滴くらいは拭える」
「あの、不満なんて・・・」
何か言いたげなのを押しとどめる。
「思ったより長引きそうだ」
先ほどから降り続ける雨は、止む気配を見せない。黒い雲は厚く空を覆ったままだった。
「こんな時に限って、誰も傍に居ない・・・」
いつもは、うっとおしいほどに付きまとっている護衛達も、今日に限って何をしているのか。
雷は鳴り続け、時折眩しい閃光が東屋に入り込む。
先ほどから、ずっと黙り込んでいる神子に目を向けると、彼女はただじっと空を見つめていた。
「どうした?」
「雨、やまないかなぁと思って」
「そういえば、お前は雷を怖がらないのだな」
すると、問われた事が分からないと言った目でこちらを見る。
「雷が恐い・・・ですか?」
「ああ。大抵の女は女中連中まで揃いも揃って騒ぐものだ。水戸でもそんな調子で、大奥あたりなど煩くてかなわん」
「そう、ですね」
少し考える様に目を伏せる。
「怖い時もありますけれど、今は平気です。綺麗だなって思ってみていました」
「なんだそれは」
何も言わずに神子が微笑んだ。
「お前は、不思議な女だ。良くわからん」
「そうですか?ただの女です。みんなと同じです」
ささやかな会話の合間に、雨が小降りになる。これ以上ここに居ても仕方が無いと判断して腰を上げた。
「慶喜さん?」
「神子、このままでは陽が落ちて面倒な事になる。母屋まで人を呼びに行くからお前はここに居ろ」
「え?」
「まだ雨も強いし、距離がある。脚をとられて怪我でもしたら厄介だ」
「それなら慶喜さんだって・・・」
「俺は大丈夫だ。万事がこなせる男だからな」
軽口をたたいて安心させてやろうという心づもりが無かったとは言わない。
しかし、もの言わず羽織の裾を握りしめる神子の手が震えているのに気付いてしまった。
「どうした、神子」
「あの、一人で行かないでください」
「急に何を言う。ここに二人で居続けるのは得策ではない。聞き分けろ」
「駄目です」
「お前が行くというのは却下だ。方向も分からないだろう」
「・・・」
ただ、無言で裾を握る神子にいつもと違う気配を感じて、裾を握る手に手のひらを重ね向き合う。
「どうした、ゆき」
少女の名を呼んでやれば、はっとしたように顔を上げる。
至近距離で見つめ合うと、その瞳に薄い膜が張っているのが知れた。
「ひ、一人で行かないでください。怖いです」
「どうした、急に」
「ごめんなさい、でも一人でここに居るのは怖いです」
さっきまでの朗らかさはどこへ行ったのか。
「・・・雷も怖くはないと言っていただろう」
半ば気付いているくせに、念を押すように聞いた。言わせたいと思った。
「雷は恐くありません。でも、慶喜さんと離れて一人になるのは怖いです」
雨に打たれたからではない、何か冷たいものが背筋に走るのを感じた。
どうして、この神子はこんな言葉を紡げるのだろうか。

「それでも、ここに残るは得策ではない。来い」
握った手を引いて横に立たせると羽織を脱いで手渡す。
「乗れ」
「えっ・・・」
そのまま背を指し示すと、神子が明らかに動揺する。
「お前は残るのが厭だと言う。二人でここに居るのも得策でない」
「でも、私も一緒に歩いて・・・」
「雨避けになるものが俺の羽織しか無い以上、分かれて歩くのは具合が悪い。お前を背負って頭から被れば丁度いい」
「そんな、私はいいですから」
「神子・・・」
頑に唇を引き結び見つめてくる少女にもう一度声を掛けた。
「ゆき、俺を困らせないでくれ」
ぴくりと打たれた様に肩を震わせた神子は、目を伏せて、しかし素直に背に手をやってきた。
顔が酷く赤い。
先ほど気付いたことだが、神子は自分の名で呼ばれることでより強く反応するようだった。
なるほど、役職で呼ばれるよりも名で呼ばれる方が心に響く気がするのは分からないでも無い。

もちろん、それだけが理由ではない事も薄らと感じてはいる。
だけど、今は胸に仕舞い込む。

神子を背に負い踏み出すと、背で、緊張に強ばった身体が身じろいだ。
濡れた絹を介しているからか、じんわりと広がる温もりと感触が生々しい。

「まったく、お前は俺を操るのが上手い」
「え、そんなこと・・・」
「気付かずにしているなら、なお良い」

立場上、そうなるべくして与えられたものが多かった。
それは、地位であり、物であり、人であり・・・多くの女性たちもだ。

そうするようにと言い含められてやってきた女達との、分かりやすいやり取りも楽しかった。
そこに、思うままに言葉を投げて、彼女らを困惑させるのも一つの酔狂で楽しい遊びだった。

しかし、彼女は違う。
決して与えられない前提の女は、思うままに言葉を投げて己を困惑させる。
これをとことんまで追いつめて囲いこんでしまったなら、彼女はどうするだろう。
怒るだろうか、泣くだろうか。はたまた喜ぶだろうか。

恐らく、そのどれでも無いと思わせることこそが、彼女の面白さであり、惹かれて止まない理由のひとつであると、自分は知っている。

盲目に彼女に捕われることを良しとする者もいるが、それでは真髄には近づけない。
囲うか囲われるか。
神子が知らずに広げる途方も無い慈愛の手のうちをかいくぐって、さらに大きな慈しみを持って囲うことが出来たなら、恐らく新しい道は切り開かれるだろう。
心の底から敬い慈しみ合う、そんな絆を得られるのだろう。

「あ、灯りが見えました」
「よし、着替えたら俺の部屋へ来い。茶を淹れてやる」
「慶喜さん、気が早いです。それに、お茶くらい私だって・・・」
「言うな。俺が淹れたいのだから気にするな。それに俺は」
「万事がこなせる男・・・だからですか?」
「ようやく分かったか」
「はい。分かりました」

ようやく、近くの母屋に着くと神子を背から下して、慌てて駆け寄る女中達に預ける。
同じく集まり群がってきた侍従達を手で追い払うと、手ぬぐいを片手に廊下を突き進む。
真っ青な顔で近侍が追ってきた。
「このような雨の中、大層ご不快な思いをなされたことでしょう。どうか平に・・・」
「いや、非常に面白い経験だった。たまには貴殿らも良い仕事をする」
「はっ・・・」
嫌味と受け取ったかもしれないが、それでも構わない。
実際に嫌味も混じっているし、思った事は事実だ。

この雨で、使いに出した従兄君も足止めをくっていることだろう。
これ幸いにと、茶の算段をしつつ室へ向かったのだった。

 

【終】

(2012-08-13up)

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