夕立に降られたのを、庭の東屋から母屋へと無事帰還できたのはひとえに慶喜の判断によるものと言って間違いなかった。
あの後、再び雨脚は強くなり、いよいよ日が暮れて季節は夏とは言えども凍えることになっただろう。
たどり着いた二人を、幕臣はじめ女中らが慌てて出迎えて、今はゆきは女中達に囲まれて一室に居る。
慶喜はと言えば、お礼を告げる間もなく受け取った手ぬぐいで顔、首筋を拭いつつ、そのまま歩いて行ってしまったのだった。
慌てて追いすがる慶喜の近侍たちが気の毒に思えるほど。一度とて後ろを振り返る事はなかった。

とりあえず、ありたけの白布で囲まれて水滴を拭われているゆきに、女中のひとりが尋ねた。
「ご装束も濡れておりましょう。お取り替えしたいのですが・・・」
にわかに言葉に詰まる。ここはほとんど男所帯で貴人女性の身につけるような衣が無い。
城には大奥があり、そこには奥女中達もいるのだが、今や主たるはずの慶喜は与り知らぬで近寄りもしない。
そこは大奥という名称で存在はしているものの、全くの別の統制による一個の世界と言ってよい場所であった。
というわけで、そこから衣装を持ってくることもできない。
「気にしないでください。このままで大丈夫・・・っくしゅ!」
気丈にも微笑ってみせた神子は健気だが、やはりこのままでは風邪を引かせてしまうだろう。
「粗末なもので申し訳ありませんが、衣をお持ちしますので」
言うと、自分たちの持つ衣装の中でなるたけ良い衣を貸し出そうと女中達は散っていったのだった。

再び、ひとり部屋に残されたゆきは、自分を包む白布を畳もうと肩から下ろす。
そこで、いつもの装束の白では無い濃い色が目に入った。
(そうだった・・・)
東屋に避難したものの、寒さに凍えるゆきを見かねて慶喜が差出したものだった。
(男の重ねていた衣など・・・って言ってたな)
とすれば、一番上の羽織は雨避けに使ったのだから、その下に重ねていたものだろうか。
(あれ?そういえば慶喜さん、どんな格好をしていたかしら)
記憶を辿れば、しがみついた背と、すがった着物の裾に、名を呼ぶ顔を思い出した。
(あれ?え・・・っと、私ってば何をしているの!?)
思い返せば、あってはならない振る舞いしか出てこない。
(~~!どうしよう・・・)
記憶の中の振る舞いに頬が赤くなる。羽織った衣をたぐり寄せて顔を隠した。
その衣から少し苦くて渋みのある香りがした。鼻腔を刺激する香りは香辛料を思わせて、だけど後からやってくるのは深くて強い甘い香り。
これは、彼の匂いだ。
八葉達も、それなりの身分の者が多かったし、特に年長者たちは何らかの香りを纏っていたのを覚えている。
瞬や龍馬はどこか清涼感を感じさせる爽やかな香りがしたし、チナミと総司は鼻につかない程度の微かな甘い香りがした。
高杉とアーネストは、個性的だけれど落ち着くようなとても良い香りを纏っていたし、小松と桜智は甘いのと甘く無いので正反対だけれども、共にどこか華やかな香りがした。
リンドウも、近づくと少し水気を帯びたしっとりと甘い香りがするのを知っている。
どれも、その人の人となりを表すような香りばかり。

慶喜の香りも、やはり彼を思わせた。
出会ったばかりの頃は、素顔も知らず心意も分からず。時折、リンドウを経て伝わってくる言葉は厳しいものが多くて身が竦む思いをしたものだ。
そのうち、直接言葉を交わすようになって、その考えの一端は知る事ができるようになると、彼の特異さを感じた。
奉行であり、あのリンドウをこき使う器量を持った人物だから特別なのは当たり前だけれども。
しかして、予感の通りただ者では無かった彼は、思いのほか懐深いだけでなく、ずば抜けた胆力の持ち主でもあった。
そして、時々とてつもなく甘い。・・・思い返せば、リンドウに対してさえ甘かったと思う。
相反したものが混在して慶喜になっているのだ。
それは、とても不思議なことのような一方、当然のことにも思えた。
(いい匂い・・・)
好きな香りだ、と思った。このまま、香りの中に埋もれてしまいたくなるくらいに。
「・・・こ様」
(ずっとこうして居られたらいいのに・・・)
「神子様!」
呼びかける声が間近で聞こえたのに驚いて、伏せた顔を上げた。
「は、はい!」
「神子様、恐れ入ります。衣をお持ち致しました」
女中が持って来た衣は、それでもさすがは城仕えの女達の品物で、市中の女達が着るものとは格段の差の代物だった。
確かに、少しばかり地味で無難な意匠であったけれど、ゆきにはかえって馴染み易い。
「有難うございます。お借りしますね」
「本当に、このようなものしかご用意出来ず申し訳ありません」
恐縮する様子の女中に今一度礼を告げて、衝立の向こうで袖を通す。帯だけはやはり上手く結べないので手伝ってもらうことにする。
ざわざわと、襖の向こうが騒がしくなったのは着替えが終わろうとする頃だった。
「神子様、失礼致します」
酷く緊張した面持ちで女中の一人が室内に声を掛ける。
「はい、どうしました?」
ゆきが応えると、女中はつかえつつ言い募る。
「その、それが・・・上様が」
「え?」
「あの、とても上様にお目通り出来るような仕度が整いませぬと申し上げますれば・・・。いえ、それは神子様がと言うのではなく、ご衣装が」
「まどろっこしいことはいい。神子、入っても良いか」
慶喜の声だった。
「はい、構いません」
応えて、衝立の外に出れば同じく慶喜が敷居を跨いだところだった。
「なんだ、別に奇妙な出で立ちというでも無し。なかなかに良いではないか」
顎に手をやり笑めば、神子が不思議そうに首を傾けた。
「あの、どうしたんですか?」
「別に。俺はお前がどのような格好でいても気にならないということを確認しただけだ」
「そう、ですか」
「ところで、茶を用意するから訪ねろと言ったが忘れたか?」
忘れては居ないが、こちらはつい先ほど着替え終えたばかりである。
「忘れてはいませんでしたけど、私はまだ着替え終わったばかりで。お待たせしましたか?」
「そうでもない。俺がせっかちなだけだろう」
得意そうに言うので思わず笑ってしまう。
「ふふ。そんなに急がなくても、私、逃げたりしませんよ」
一寸、胸に苦いものが広がったが噛み殺して慶喜は言葉を継いだ。
「それは良かった」
「あ、そういえばお借りしていた衣は今度お返しします。お洗濯して・・・」
「洗濯?まあ良いが、そのようなものを被らせて悪かった」
「そんなこと・・・」
言いながら、ゆきは着物の袖に顔をやって匂いを嗅いだ。
「神子、どうした」
「・・・さっきまで、慶喜さんの衣の香りが移って良い香りがしたんですけれど。着替えたら違う香りになってました」
当たり前ですよね、と言って微笑む。
「この着物の香りも良い香りだけれど、慶喜さんの・・・?」
眼前で笑み深くしている人物に視線で問いかけた。
「いや、香りが移るほど近づいたかと思い返したが、衣を被せて背負ったのだったな」
おかしそうに笑う。
「まるで色気の無い話だが、移り香と言うなら良いものだ」
「・・・!あの、思い出させないでください」
再び、やり取りを思い出してゆきは赤くなる。
「この香り、欲しければいつでも移してやろう。好きな時に訪ねてくるがいい」
「もう!」
恥ずかしさの絶頂で真っ赤になってむくれる姿を見て、愛しいと思う。
質素な着物を着てふくれる女など、本来なら目にも入れないだろうに。
この神子がするならば、どんな姿も言葉も逃さずこの手にしたいと思える。
「さて、本当に茶でも飲むかと言うところだが・・・」
言って振り向けば、再び襖を少し開けて言葉を継ごうとしていた女中が固まる。
視線を上に上げれば、そこには煩い従兄君が立っていた。
「楽しそうなところ悪いですけれど、そろそろ神子殿をお返しくださいませんか」
「なんだ、リンドウ。戻ったのか」
思い切り嫌そうに眉を顰めてやると、リンドウが小さくため息をつく。
「何ですか。戻ったら悪いわけ」
「いいや。後で報告を聞こう」
「リンドウさん、お帰りなさい」
「ただいま、神子殿。それで、慶くんはいつお茶を出してくれるの?」
「・・・お前に飲ませる茶など無い」

くだらないやり取りに、心に灯った炎を紛らわせる。

(あのひとの香りが好きだ・・・)

(残り香ではなく、捉まえておけたなら・・・)

脳裏に浮かぶのはきみの顔と香。

【終】

(2012-10-28up)

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