ゆき、桜が咲いた
ゆき、新茶があるぞ
ゆき、花火を見よう
ゆき、紅葉が美しい
ゆき、初雪だ
「ゆき、…」
いつもなら、名を呼ぶとすぐ返る声が聴こえない。
訝しんで首を回したところで、長く仕えている老女中の声がした。
「奥様は寺子屋に行ってらっしゃいますよ」
言われて苦い顔をする慶喜に、その奥方に代わって茶を差し出すと老女中が続ける。
「いつも、週中この時間には出掛けられているではないですか」
お忘れですかと微笑まれて、きまり悪く言い返す。
「春には学制も整う。あれが出る幕ではなかろう」
「だからこそ、余計に…なのでございましょう」
慶喜をよく知る彼女は一歩も引かない。この辺りは仕える主によく似ていた。
確かに、はじめは気分転換にでもなればと始めたはずなのに、今や週一度かかさず彼女は寺子屋へ通う。ぼんやりとしている癖に分け隔てなく世話を焼きたがる性分なのだ。
そもそもの事の発端からして、本来ならばありえない経緯だった。
どこで知ったのか、ゆきが西洋の言葉や事柄に明るいと聞きかじったものどもが英語を教えて欲しいと群がってきたのだ。
今や数ならぬ身になったとしても、かつての将軍家の奥方なのである。
それなのに、身分も立場もばらばらの得体のしれない連中に頼み込まれて、いささか無謀な依頼を二つ返事で受けいれてしまった。
立身出世をはかる有象無象に加えて、最近では下々の子どもたちの手習いを見ているという。
当然のことながら反対したが、寵愛する妻にねだられて無下にするのは、さすがの慶喜にも出来なかった。何しろ政略も何も関係なく愛して一緒になったひとなのだ。
止むを得ず、語学志望の連中はどうしたって血気盛んな男ばかりになりがちだから、屋敷を開放した。広めの一室に籠めて見張りも置いた。時々は、自らも机を並べて、ゆきの講義を聞いた。
はじめは意気はやっていただろう連中も、共に机を並べるそのひとの、ただならぬ圧力を感じてか黙々と勉強に励んだ。それはそれは、大層やり辛かっただろうが、そんなことは慶喜の知ったことではない。
子どもたちについても、厳しすぎると言われたが女のみを対象とさせた。
これでも、かつてなら考えられないほどの譲歩だ。
しかし、間も無くその必要もなくなる。国民は一様に男女の差なく教育を受けられるようになるのだ。
今はなき幕府を経て新しく樹立された政府は少しずつ機能し、この国を西洋列強に並び立つ国にするべく舵を切っていた。
離れた所から見るにつけ、目に余ることも多少はあれど、概ねその新しき政策は受け入れられることだろう。
例えば、この教育制度など然りだ。
「講義を受けに行ってくる」
言って裾を払えば、老女中が微笑んで見送った。
屋敷にほど近い商家の一室で、教室は開かれていた。かつての駿府城に連なる城下町とはいえ、江戸や大阪のそれとは比べるべくもない。
出迎えた主を手で制して、こっそりと教室へ忍び込む。
「…さん、良くできました」
聞こえてきたのは、柔らかでいながら凛としたゆきの声。
「かよさん、良くできました。ちえさん?はい、良くできましたね」
しばし、襖に手をかけたまま佇む。慶喜は彼女の声が好きだった。それは惚れた弱みという以上に、恐らくは初めて声を聞いた時からだと思う。
ここに至るまで、幾度も言葉を交わした。あの声は、ささくれ揺れる心を何度も慰め勇気付けてくれた。
そっと襖戸を開き、一番後ろの席に座る。
ゆきは、気付かぬ様子で生徒ひとりひとりと目を合わせながら講義を続けている。
ひとの目を逸らさずに見つめるのも彼女の特異なところだろう。
出会ってから10年近くが経って、今が盛りであろう美貌は、若い頃の瑞々しさがまろみを帯びて、一層、彼女らしさを引き立てている。
目を瞑り耳を澄ませば、愛してやまない声がする。
「‥さん、良くできました。次は、……えっ」
一寸驚いたような声がした。
「…慶喜さん?」
呼び掛けに応えて目をあける。案の定ぴたりと目があった。
「ようやく気付いたか」
「すみません。今、気づきました」
熱心に講義を受けていた女生徒達も慶喜に気付いてさざめく。
にわかに途切れてしまった時間に、どことなく申し訳ない気にもなって慶喜は言った。
「こちらこそすまなかった。ここで大人しくしている」
それでも帰る気にはならなくて、ここに居たいと遠回しに訴えれば、ゆきが柔らかく微笑んだ。
「それでは、慶喜さん。今は漢詩のお話をしていたんです。何かひとつ、ご披露してくださいませんか」
「…、どのようなものがいい」
「そうですね、彼女たちの門出に」
しばし思案してから朗読する。
その声は、在りし日から変わらず朗々と響いて周囲はただただ聞き入った。
結局、ゆきとともに女生徒達を見送りそのまま帰途につく。
「今日はありがとうございました」
「いや、女生徒に贈るにはいささか、粗野な詩だった。気が利かずすまぬな。しかし、漢詩など教えているのか」
「今日は特別なんです」
普段は、教養に近いことを教えている。しかも、ゆきは10年暮らしたと言っても、まだこちらの世界に疎い。
「最後だから、皆の興味があることをお話しましょうって。ちよさんのお兄さんが諳んじてらした漢詩のお話が出てそこから」
楽しそうに笑う。
「なるほど。近頃は女子の方が血気盛んらしい」
「そうですよ。新しい時代が来て、女性には守らなければいけないものが沢山あるんですから」
「さようか」
慶喜が笑みを向けてやれば、嬉しそうに続ける。
「慶喜さんが詠んでくれた漢詩、私の心にも響きました。花も嵐・・・大変なこと沢山ありましたし、全部置いて新しい世界に飛び込んで」
「寂しく思うか」
「全くないと言ったら嘘になりますけれど、私は今が幸せだから十分です」
健気に言う姿に悲壮感は無い。だから、要らぬ心配はしない方がよいのだろう。
「そういえば、生徒達に名を呼ばせているのだな」
「はい。これまでは”先生”ってつけてもらっていましたが、今日以降は先生じゃありませんから」
「さようか」
少しの不満を滲ませて言うと、ゆきが諭すように告ぐ。
「これまで”ゆき先生”で来たのに、いきなりまた奥方様とか呼ばれるの嫌なんです。それに、これから開かれた世の中になって行くんですから」
こちらの方が普通なんです、と、彼女の知る先の世界のことを言った。
「女子たちはまだ我慢出来るが、どこの馬の骨とも知れない男にその名を呼ばれるのは気分がいいものではないな」
「あら」
慶喜が言うと、わざとらしくゆきが驚いてみせる。こういう所は、すっかり初々しさを無くして臈長けた女のものだ。
「慶喜さんだって、名前で呼ばれているじゃないですか」
確かに、町では自分を”けいき様”と呼んでいるらしい。そう話しかけてくるものも居る。
「しかし、本当の名を呼んでくれるのはそなただけだろう」
手を伸ばして隣の小さな手のひらを握りしめる。
「慶喜さん?」
「様々な名で呼ばれてきたが、ゆきだけは変わらずそう呼びかけてくれる」
自分自身不思議なのだ。どうしてそんな風に思うのか。
「安心する。ゆきの隣に居る自分が本物だと思うことができる」
「私もですよ。少しずつですけれど、慶喜さんが私を”神子”と呼ばなくなって。やっと、私は龍神の神子ではなくて、ただの恋する女の子に戻って」
一度言葉を切る。
「今は、ちゃんとあなたの奥さんになれたかなって。そう思うと嬉しいんです」
「何をいまさら。それ以外のものにはなれぬぞ。それ以外にもさせぬ」
「慶喜さんこそ・・・!」
繋いだ手がぎゅっと握りしめられる。ふと隣を見やれば飄々としていた筈の愛妻が頬を染めていた。
「これまで散々頑張ってきたんですから、これからの人生は私だけのものです。そう言いましたよね」
「そう言った」
ますます赤くなるゆきを見て、慶喜は声を出して笑った。かつては、笑うなどということはほとんど無くて、ましてや女性を横に街中を歩くなど考えられもしなかった。
「強欲な妻を持つと苦労するものだ」
おどけて言えば、ゆきが「もう!」と声を上げて腕に抱きついてくる。
「どうした、今日はやけに甘えてくるな」
「だって、長いこと見ていた生徒たちを送り出して、私だって寂しいんです」
すがりついてくる頭を反対側の手で撫でる。
「しばらくは、俺だけで我慢するのだな。まったく・・・」
そのまま顔を寄せて額に口づけた。
「愛する者が強欲では苦労するばかりだ」
ゆきが頬は染めたまま不思議そうな顔で見上げてくる。
「なに、望みはすべて叶えてやりたいと思ってしまうだろう」
諦めにも似た、幸せそうな笑みとともに慶喜が言うと、ゆきが見上げた目を逸らさずに告げる。
「ごめんなさい。でも、ありがとうございます」
「ゆき」
「はい、なんですか」
「来週には桜が咲くらしい。二人で見に行こう」
「はい、一緒に行きましょう」
【終】
(2013-03-10up)