「このことは、秘めねばなりません」

京に移り、初めに告げられたのは、この運命の選択が重大なことなのだということ。

「御身は一族の名にかけて御守りしましょう」

しかし、かの人を護るのも重大な使命なのだと、静かに諭す張りつめた声が示していた。

「兄上は、ああ言ったけれど、君の身柄を確保した意味を間違えないでね」

リンドウの兄であり、星の一族でもある二条家当主の前から退出して一番、言われたのは己の身のことだった。
いつになく厳しい表情で語るリンドウの横顔は、整っているだけに一層怜悧で冷たく見える。
「はい、気を付けます」
「気を付けるだけじゃ足りない。外出はもってのほか、邸内を移動するのも、なるだけ事前に僕に居場所を伝えて。言っておくけど、君自ら告げにくるのは無しだよ。 その為に、幾人も側用人を付けてるんだから」
リンドウが釘をさす。
「慣れなくても、人を使うことを覚えて。君が選んだのは、そういう運命だ」
「…はい」
神妙に返事をすれば、さすがに八つ当たりが過ぎたと思ったのだろう。幾分か語調を弱めてリンドウが継ぐ。
「ほんと、馬鹿正直に謹慎なんて決めるから、こんなことになってるんだ。まったく、何ひとつ持たずに行ってしまうんだから酷いよ」
その言葉には、リンドウ自身のことも含まれているのだろう。
「待つ身になってみたらいいんだ、あの人は」

“あの人”は、時代の激流を潜り抜けた末に、職を辞して故郷で謹慎生活を送っている。
出来るだけ静かに密やかに。
息を潜めながらの生活に安寧は不要とばかり、あらゆるものを置いて行ってしまった。

謹慎があけたら。
ようやく、かつて夢見た安らかな日々が待っていると。だから待っていて欲しいと、あの人はゆきに告げた。
その時には、すでに彼の傍にある事を決めていたから、ただ、ただ、その言葉を信じてうなづくしかなかったのだ。

やがて、江戸幕府は完全に失われ、新たな政府が立つ段になって、ゆきは、リンドウとともに京へ移ったのだった。
この世界で、ゆきに身寄りはなく、寄る辺となる人も傍に居ない今にあっては、頼りにできるのは星の一族であるリンドウとその実家だけであった。

そして今に至る。

「神子様、ご機嫌はいかが?」
この日は、午後からリンドウの姉姫が訪ねてきていた。
すでに宮家に嫁いでおり、親王妃という身の上ながら、身軽にも時折こうして、ゆきを訪ねてくる。
リンドウ曰く、星の一族の甲斐性と言うものらしい。
「慶喜さまからは、御文が届いたりはしないのですか?」
畳敷きの部屋に置かれたテーブルで紅茶を前にリンドウの姉姫が問いかける。
「謹慎の身ですから。まして、私宛には御文は来ません。時折、二条様宛に側近の方から近況が届くこともあるそうなのですが」
「そう…。それは御心配ね」
気の毒そうに言って紅茶をふくむ。
「水戸は寒いそうですから…、風邪を引いてないかとか。ひとりで寂しい思いはしていないかとか…」
切々と語るゆきの横で噴き出すような声がした。
「ふふっ…慶くんのこと、そんな心配の仕方しているひと初めて見たよ」
「これ、斉基殿。失礼ですよ」
「すみません、姉上」
やんごとない身分の姉と、身辺の危うい神子の茶会とあって、陰陽師でもあるリンドウが側近くに侍っているのだった。
「ごめんなさいね、神子様」
「気になさらないで下さい。リンドウさんの言うとおりですから」
私は、慶喜さんのこと、何にも知らないに等しいですから…。
自分の方が余程寂しげに、ゆきが言う。
「大丈夫だよ。謹慎と言ったって慶くんの周りには沢山の近侍やら何やら居るわけだし」
「これだから、殿方と言うのは身勝手なのですよ。神子様のお心遣いが、そういった事柄を仰られたのではない事すら分からないのだから」
慰めを口にしたところを頭から否定されて、リンドウがヘソを曲げて反論する。
「それが理と言うものなのですよ、姉上」
「そうだわ。御文は無理でも何か神子様を偲ばせるものをお送りしてはいかがかしら」
しかし、リンドウの言葉など何処吹く風と言わんばかりに、姉姫…親王妃が続ける。
「香りなどはいかがかしら。調べられて困るものでは無いでしょう」
「でも、形は家人同士がやりとりしている文に、いきなり女の、しかも安くは無い香りがしたら疑って下さいと言わんばかりでしょう」
「もう、貴方は黙っておおき。どうかしら兄上。何か神子様のために出来ることはないかしら」
親王妃は、末の弟を黙らせると、それまで、同席はしていたが沈黙していた長兄…二条殿に話を振る。
「そうだね。何か互いの無事を直に伝える術があれば、心の支えにはなるのだろうが…」
「慶くん、結局式神も持たずに行っちゃったからなぁ」
「斉基、そういうことではないのだよ」
微笑んだまま窘める。
どうも、末弟には情緒と言うものが欠けているらしいと、親王妃が溜息をついて、再びリンドウが不貞腐れた。
変わらぬ姉弟の様子に苦笑しつつ二条殿が続ける。
「やはり、物だとかいらぬ勘繰りを誘うものは避けなければならないね。何のために公が何ひとつ持たずに行かれたかを、我々はよくよく肝に命ぜねばならないよ」
再び、場を沈黙が支配する。各々、目の前の茶器を手に紅茶をすする。
「そうだね…」
ゆっくりと丁寧に茶器を皿に戻すと、二条殿が言った。
「我々は星の一族で、貴女は神子なのだから、龍神様にお願いしてみると言うのはいかがかな」
「白龍にですか?」
「そう」
「まあ、兄上。そのような方法がありますの」
「どのようにするかは、分からないのだけれどね」
ここで一斉にリンドウへと視線が集まる。
「こんな時ばっかり…。僕も流石に分からないよ。そもそも白龍がそんな私的な願い事なんて聞いてくれるんですか」
当のゆきは、落ち着かない様子でリンドウに視線をやる。
二条殿は、再び紅茶を口にしたあと、気負う様子もなく告げた。
「神子の為に何とかしてやりたいという思いは、白龍も同じでしょう。門前払いは無いよ」
その気持ちだけは、我々にも痛いほど分かるからね。
この二条殿の一言で、話題は幕された。

記憶は、江戸で八葉たちと共に奔走していた時に戻る。
あの日、慶喜…小栗が訪ねて来ていたのをゆきが知ったのは偶然だった。
夜半過ぎて、日課のように庭へ出たあと、自室に戻る途中で灯りが漏れる室を見た。

確か、あの室はリンドウの自室で、まだ起きているのだろうかと立ち寄った。
灯りの漏れる襖戸を少し開けて中を伺うと文机に倒れこむようにしている姿が見えた。
「リンドウさん!?」
慌てて立ち入れば、それは室の主ではない。
「えっ…」
名を口にしようとしたところで、畳についた手を掴まれた。
思わず悲鳴をあげそうになる。
「静かに」
こくこくと頷いて肯定の意を示す。手を掴んだまま見上げてきた目線は底冷えのする鋭さだった。
ようやく手を離され、眼前には姿勢を正した小栗忠慶がいる。
「小栗さんがいらっしゃるとは思わなくて…」
「私で無くとも、このような振る舞いは控えた方が良い」
「はい」
「夜半に女子に室を訪ねて来られるとは思わなかった」
無作法に怒っているかと思いきや、言った小栗の口の端は上がっている。
「女子があなたの室を訪ねてくるのは珍しくも無いでしょう?」
ふと、襖戸を背にしたゆきの上から声が降ってくる。
「リンドウさん」
今度こそ、室の主である。
「確かに。龍神の神子が訪ねてきたのは初めてだがな」
「ひとの室で、下手なこと起こさないでくださいよ」
軽口を叩き合う二人を横目に、ゆきは再び小栗を見上げた。
「小栗さん、顔が赤いです」
「ちょっとちょっと神子殿、あんまり女子がそういう話題を…」
「違うんです、リンドウさん」
勘違いしている風なのを、一度言葉を切って言い直す。
「さっき小栗さん、机に倒れこんでいて…」
「神子…」
再び、有無を言わせぬ断固とした強い声が名を呼んだ。
「そろそろ、神子殿も寝なさい。明日も怨霊の浄化に行くんでしょう?」
「あ、はい」
「それじゃ、おやすみ神子殿」
話を打ち切るように、リンドウが退室を促す。
「あの、おやすみなさいリンドウさん。…小栗さん」
「ああ。よく休むように」

そこで記憶は途切れた。あのとき、確かにあの人は笑っていた。
でも、少しだけ苦しそうで、紅潮した頬が体の不調を知らせていた。

あの時から、時折リンドウなどが茶化す様に言うけれど、彼は決して人外の生きものなどではなく、自分と同じただのひと。
年若い、ただの青年であるのだと思う様になった。
のしかかる重圧や、周囲の有象無象の期待など、ゆきにかかるそれの比ではないのだろうことは分かる。
そして、彼がそうなるべくして生きてきた人物だということも。
それでも、神子としての自分に押し潰されそうになりながら抗う感覚は、きっとあの人の感じているものと似ているのだろうと、心のうちで確信していた。
周囲に、決して弱みを見せない様に歯を食いしばる様は、何とも言えず哀れを誘った。
天下の一橋公にそんな感慨を持つなど常人ならば及びもつかず、そして酷く無礼なことなのだろう。
ただ、この時の邂逅がゆきの中の慶喜を決めた。

(白龍・・・)
自室で、静かに心の中で己を支配する龍に問いかける。
(白龍、まだ私の声、聴こえる?)
応えはない。
だが、遠く耳の奥で鈴の音が聴こえたような気がした。
(白龍、あの人は今どうしているかしら。辛い思いはしてないかしら・・・)
やはり、応えはない。
(私は無事で、ここで待っています。もう一度会えると信じて・・・)
室を照らす細い灯りは揺らぐことも無く、ただ、静寂に包まれる。
(もう一度・・・会いたいです。慶喜さん、逢いたい・・・)

昨晩から酷く冷えて、朝は晴れていたが身が凍る寒さだった。
蟄居の身の上ゆえに、勝手知ったる土地とて大々的に外を出歩く訳にも行かず、慶喜は静かに書を読んで過ごすことをほとんどの日課としていた。
なるだけ、目立たず、思想は持ち合わせず。
新政府の目につかぬよう、ただ日々をやり過ごすのが今一番の果たさねばならない使命であった。
土地特有のからっ風が身にしみる。
少し前から、風邪の兆候があり体調が万全とは言い難かったからだろうか。
元より、さして深くもない眠りがますます浅くなって、蟄居の身には少々堪えた。
いっそ、一日眠って過ごそうかとも思われたが、元よりそういった日々が遠い身の上ゆえにそれも憚られた。
昨夜などついに夢など見て、これがまた実に具合の悪い夢であった。
こんな調子の主を案じて、近侍らが女を宛てがおうと画策していたようだが「謹慎中」だとして釘を刺した。
かつての自身を思えば体のいい言い訳に使っただけなのだが、言い得て妙である。

見たのは、女の夢だった。
それも、慶喜が、かつて江戸で二条の末子と幕臣に身をやつして動き回っていた頃に出会った娘だ。
『龍神の神子』と呼ばれる娘は、あの頃、京と江戸市中に蔓延していた怨霊を浄化する力を持つという、世にも不思議な女だった。
はじめは、二条の末子・・・目付として幕府に仕えていた従兄の言葉を容れて利用するだけのはずだった。
それが、いつしか言葉を交わす様になり、そのうち、時折だが、胸の内を打ち明けるほどに心許した。

貶めず、持ち上げず。

何の下心もなく、ただ柔く受け止めてくれる空間が気持ちよかった。
闇雲に、分からずそうしているのではなくて、あの娘も同じ様に運命の鎖に縛られて、もがく苦しみを知っている。
そうでありながら、ただのひとのように接してくるのだ。

庭に面した縁側は、陽があたり少し暖かい。ここに彼女が居て、柔らかな膝を引き寄せて眠ることができたらどれほど幸せだろう。
想像のうちで、かの娘を思い浮かべるうちに、少々まどろんで来た。
慶喜が、庭に向かって手を差し伸べるとひやりとしたものが指先に触れる。
見上げると、ちらちらと天から花弁のような雪のかけらが舞い落ちてきていた。
「風花・・・か」
少々めずらしい天からの贈り物に目を細める。
手のひらに降り積もる風花は繊細で、その熱にすぐに溶けてしまった。
記憶の中から引っ張り出した龍神の神子は、その姿も心根も真っ白で、雪景色に溶けてしまいそうだった。
思えば、彼女も冬に現れた奇跡だった。
この風花のように、消えるか消えないか。
儚げな風情ながら、懸命に日々を過ごしていた娘は、今この掌中にある。
掌中にあるとは言っても、手ずから守ることも出来ず、今は従兄であり神子を守る一族に預けたままで。

「早く、迎えに来いという便りか・・・」

もとは、この世の人間では無いと言う。
それを引き止めて手元に置こうとしたのは、この自分だ。
愛想を尽かして雪の様に溶けて消えてしまっても、今の自分には文句ひとつ言える立場にない。
まして、彼女は一橋慶喜を将軍にまつり上げた立役者の一人である。只人ではない力を持ち、民衆の支持も厚い。
そればかりか、慶喜が神子に対して浅からぬ関心を持っていたことは、幕臣らの間で公然の秘密となっていた。
同様に、今は新政府側に居る連中も、神子に恩義を感じるもの、利用しようと画策するもの、その神聖に心酔するもの…数多居た。
いかようにも使える娘の身の回りは危険なことばかりである。

その点は、従兄の一族に預けることが出来たのは良かった。
そうそう踏み荒らすことは出来ない高貴な家柄だ。それに、神子を奉るのが使命であり、命に変えてもそれは守ってくれるだろう。

「ゆき…」

口に出してしまえば辛くなると分かっていたのに、一度零れ落ちた言葉は戻らない。
己の声とは思えないほど、頭の中で反響する。

「神子、すまない…。何もしてやれず苦労をかける」

手のひらに、ひらり、ひらりと舞い落ちる風花に語りかける。

「一番苦しい時に、傍に居てやることも叶わん。まず自分の身を浄めることが第一の男だ」

それは、慶喜の生まれや立場がそうさせている部分が大きいのだけれども、今だけは偽らず話してしまいたかった。

「いまや、将軍では無く、武士でもなく、平民でもない。俺の手元には何も残らない。それでも…」

脳裏には、初めて触れた手の冷たさが蘇る。
声を上げようとした神子の掌は冷たかった。

そう、冷たかったのだ。

少し驚いて見上げると不安で澄んだ瞳が揺れていた。
寸でのところで自戒し、声を絞って威しつけた。
余分なことは言ってくれるなと。

甘やかされたなら、縋ってしまいたくなるではないか。

彼女の陽の気は強く、願ったならば全てをひっくり返してしまったかもしれない。
けれども、慶喜はそれを希わなかった。

「風花とは、妙な天気だと思うたが、そなたが寄越したか。神子」

天を見上げれば、快晴の空だ。

襖の向こうから、近侍のものが呼び掛けるくぐもった声がした。
それを合図に、慶喜は手のひらの雪の花片を握り締めた。

その夜、ゆきは夢を見た。
邸の縁側で、黙々と書を読む慶喜の姿だった。
随分と長いことそこに居るようで、幾つかの湯呑みが置きっぱなしになっている。
お茶を淹れなくてはと思った。
江戸に居る時から、たまに茶汲みなどしていたが、慶喜…当時は小栗だったが、集中すると他が疎かになるらしい。熱い茶を無造作に口に運んで、火傷しそうになっては眉を顰める。
きちんと、受け取る時には礼を言う律儀さなのに、しばらくすると受け取った茶のことは忘れてしまうようなのだ。
リンドウなどは、良くしたもので顔も上げないくせに、そこに置いてなどと指図する。
茶を飲む時は姿勢正しく、味や温度に注文をつけるくらいだ。
そのくらい、二人は育ちも何もかも違う。
つい最近までは、当たり前のように見ていた光景が懐かしく感じる。ゆきは、夢の中で微笑んだ。
慶喜には、ぬるめのお茶を。
忘れないようにしなければ。

次の場面では、慶喜がなぜか手のひらを見つめていた。
唇が微かに動く。

ゆき……
ゆき、それでも…

名を呼ばれた気がして、飛び起きた。しかし、まだ夜明け前で室は暗い。

「白龍…、貴方が見せてくれたの?」
天に居るだろう、かつての守護神に呼び掛ける。
「ありがとう…」
そっと思い出とともに胸にしまう。
久しぶりにかの人の声で呼ばれた己の名前は、胸に染み渡り、ゆきの心を慰めた。

翌朝、再び二条殿の前に呼び出されたゆきは、どこか浮き足立った様子のリンドウとともに御前に座した。
「他でもない、神子殿。報せが参りましたよ」

間も無く、慶喜の謹慎が解かれるだろうとの報に、薄く口を開いたままで表情が固まる。

「神子殿?」

横から問いかけるリンドウの声で、ゆきの中の全ては崩壊した。

「ありがとう…ございます」

深々と下げた頭の下では、尽きることなく溢れ出る涙が、宝石の大河を築いていた。

【終】

(2013-01-06up)

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