江戸城、松の廊下近くの一室にて。
「はい、やり直し。元の位置に戻って」
「はぁ」
「返事」
「は、はい!」
指摘を受けて、慌てて正装した武士が幾らか離れた座に戻っていった。
その姿を見て連座する年若い武士が小さく笑いを漏らす。
まるで緊張感の無い、近所の寺子屋での風景のようだった。
教官役が、面々をチラリと見てから一つ咳払いして告げる。
「大切な事を申し忘れておりましたが、この場は連帯責任です。御承知おきを」
即座に笑いがどよめきに変わる。
軽い溜息とともに続けた。
「当然でしょう。だって、仮に個人は素晴らしくとも、貴方達は”今年”の括りになるし、貴方達の背後にあるものをお忘れでは無いですよね」
ここまで言われれば、愚鈍な大名の子息とて意味を理解する。
「分かったなら、もう一度。注意深く廊下を歩いて下さい。このままだと、口上までたどり着かないよ」
教官役が深く溜息をついて姿勢を正した。それを見て、先頭の者が立ち上がる。
先は長そうだ。
今日は、ここ江戸城で年に一度の大名嫡子御披露目に向けた事前練習が執り行われていた。
こういった儀式関連には、事前練習が付きものであるが、幕府においてそれを担当するのは、何故か御目付という役に就く幕臣達の役目であった。
そもそも、御目付役の役目は各々重要ではあるものの、多岐に渡り過ぎて一見しただけでは繋がりの見出せない雑務の山のようだ。
例えば、こういった式典に挑むにあたっての礼儀作法の指南役であり、奉行所に集まる目安箱の管理者であり、奉行所の裁き立会人でもある。
果ては、江戸城の閉門も御目付役が指示し、城内の見廻りもする。
有能でなければ勤まらないとは、非常に前向きな言い方で、有る程度は何でもこなせる器用さが試される職だろう。
幸い、様々な雑務のうち幾つかは当番制だ。
しかし、出来ることなら廻ってきて欲しくないのが、まさにこの御披露目の事前練習係であった。
廊下を歩くことすら侭ならない大名の子息達を見て、リンドウは何度目かの溜息を吐く。
『摂関家出身の目付役がいる』
『かの目付役に指導賜れば、いかな愚鈍な子弟でも、美しい立ち姿で歩けるようになる』
『口上は、歌詠むが如く流暢になる』
『一端の公達の如く変化する』
いつの間にか広まった噂は、尾ひれ腹ひれがつき過ぎて、もはや、元がどんな話だったか分からない。
そして、それを真に受けてなのか、なんなのか。藁をも縋りたい気持ちの大名達によって、選りすぐりの面々が噂の教官…摂関家出身の目付役にして今最も将軍に近しい男…リンドウの元に送られてくるのだった。
正直なところ、いくらリンドウが目付役にして陰陽師だからと言って、術で人間を作り替えることが出来るわけではない。
単に、根気良く的確に、少しは見られるように崩れたハリボテを立て直すのが、上手だっただけだ。
しかし、ハリボテでも何でもいいから作って欲しい大名は意外と多いらしい。噂が噂を呼ぶうちに、おかげで数ある儀式の中で最も面倒な御披露目の事前準備係は、ほぼリンドウで担当が固定されてしまったのである。
◇
さて、場は松の廊下近くの一室に戻る。
リンドウは頭を抱えていた。
子息達が緊張しているのは分かるのだ。
分かるけれど、何故姿勢を正したまま立ち上がることが出来ないのか。
そして、真っ直ぐに歩くことが出来ないのか。
何より、コツを教えたのに何故覚えないのか。
全国選りすぐり…つまり、諸藩お手上げの坊ちゃん達は中々の難物であった。
ようやく、口上にたどり着いたのも束の間、今度は声が出ない。
ただ、出身国と家名、名前を告げるだけなのに。
(頭痛い…)
「………ドウ!」
こめかみを押さえた所で、よく通る声が名を呼んだ。
まだ声は遠いが間違いない。
「リンドウ!居るではないか。返事をせよ」
再び聞こえた声は廊下側からで、目をやると、当代将軍たる慶喜が少し不機嫌な調子で文句を言ってから、堂々たる足取りで廊下を渡る所だった。
居並ぶ大名子息達を一顧だにせず、突っ切る。裁く袴の乱れすら無い。
思わず惚れ惚れするような、威風堂々とした完璧な立ち姿であった。
これほどの人を前にしたら、あの四賢侯すら頭を下げるのは当然に思える。
なのに。
リンドウの前までやってきて仁王立ちする人に、子息達は口をぽかんと開けたまま固まっていた。
ある意味、これも正しい反応かもしれない。この状況は想定外かつあまりに非常識だ。
「恐れながら、”上様”。今がどのような状況かお判りですか」
さり気なく、子息達に助け舟を出すと、さすがに眼前の人物が誰か理解して全員平伏した。
問いかけられた将軍…慶喜は、恐ろしく切れる頭で逡巡した後、彼にとっては瑣末ごとだろう儀式を思い出したらしい。
「ああ、御披露目の準備か。何の遊戯かと思ったぞ」
「彼らなりには真面目にやってるんだと思いますよ」
「立ち居振る舞いで決まる範疇など、高が知れているだろうに。くだらんな」
「悪気ないのは分かりますけど、それを貴方が言っちゃったら終わりだから」
やめてくれませんかと牽制しつつ、用向きを促す。
「いや、後ほどでよい。その役目、途中で捨て置けるものではなかろう」
「貴方が許可を下されば良いんですけど」
半分本気で、役目から解放されることを期待して言ってみる。すると斜め上の返事がきた。
「ならば、私が手伝ってやろうか」
「いーや、勘弁して下さい。そんなややこしい事になるくらいなら、僕一人で結構」
「さようか。残念だな」
ニヤニヤと漏れる笑みは確信犯だ。
「はいはい。遊んでないで早く執務にお戻り下さい。終わったら伺います」
「そうしてくれ。さて、私をあまり待たせるなよ」
頭を下げたままの子息達を睨め付けると、慶喜は愉快そうに去っていった。
リンドウは、軽く嘆息してから逡巡する。
もう、彼らは御披露目で得るべきものの半分を手に入れてしまった。
(それなら、もうこれでいいんじゃないの?)
良くも悪くも、当代将軍の目通りを得てしまった。しかも、それなりの関心を持って。
彼らが今日の出来事を意識して用いれば、すぐに慶喜なら気付くだろう。
まあ、そんなこと思いも付きそうにない面子ではあるんだけれどね…。
◇
本番を前にして、普段は交わることなど無い大名の子息達が顔を突き合わせて確認したのは、まずこの一件であった。
噂には聞いていたが、やはり凄い。
「まさか、上様に目通り出来るとは思いませんでした」
「偶然とは言え、さすが二条殿。それにあの慇懃無礼な立ち居振る舞いはどういうことか」
「それほどまでに、上様とは近しい間柄なのでしょう」
リンドウに教われば大丈夫。
それは、確かな教養に基づく指導もあるが、専ら将軍の片腕としての圧倒的な立ち位置にもあった。
父親の命でやってきただけの坊ちゃん達も、目の当たりにすれば俄然勢いづく。
よし、俺たちは大丈夫だ。
何と言っても、あの御目付殿の指導を受けたのだから。
思い込み…と言うのは、あながち馬鹿に出来ない。
かくして、この幕府において最強の御守りを得た(と思っている)教え子達は、なかなかに堂々とした立ち居振る舞いで、本番を無事に切り抜けた。
効力が永久に続くはずも無いのだけれど、こうしてまた、リンドウのハリボテ伝説が築き上げられたのである。