yukimisyouji3

2014

『君に捧げる』

君と僕とが出会ったのは、冬の最中、12月のこと。
初めて言葉を交わし、初めて手をつないだ。
そして、君と心を通わせて共に歩むことを決めた初めの月。

有り体に言えば、記念日ならぬ記念月といったところだろうか。
僕と、そして君にとって大切な月として記憶されていたら嬉しい。

月日は経って、あの江戸での日々から今は遠く。
僕はこの世界に彼女とやってきて、すっかり現代人らしい生活も板に付いてきた頃。
再びこの月が巡ってきた。

「うん。今日も綺麗だ」
広めのバルコニーの片隅で声を掛けメモを取る。
お披露目の日を前に咲き誇る姿に口元がほころんだ。
これでも僕には特技が沢山あって、例えば自虐的なものでいうと草木を枯らす…というのも上げられる。
それは愛情の裏返しなのだけれど、そうすることで相手を押し潰してしまうこともあるのだと…、かつては押し潰してしまうことを厭わない自分を見て見ぬ振りをしていたこともあったけれど、今は真摯に「愛情を傾ける」ことを考えている。
愛しくて愛しくて堪らない。そんな相手が目の前に現れるなんて考えたことも無かった。夢で見た龍神の神子はあくまで憧れの天女であって、だからこそ僕を救ってくれる神々しいものでしかなく、期待を裏切ろうとするなら僕の想いで押し潰してしまっても致し方ない位に思っていた。

でも、今は違う。

彼女が愛しくて堪らない。
今なら、365日陰日向となって彼女の姿をこの目に焼き付けておきたいと願う気持ちが痛いほど分かる。その手で、筆を取って帳面に書き取って置こうとした気持ちがよく分かる。

365日、いつだって彼女をこの眼に映しておきたい。そして、その隣にはいつだって僕が寄り添っていたい。
何より悲しいのは君が僕を映さないこと。なお辛いのは、君が歩んでいくその未来を共に見られないこと。

いつ、いつまでも、君と共に居たい。
叶わないなら、どうか君を影から見守らせて欲しい。

「よし…」

思いを込めて書き綴ったメモ帳を閉じる。
そしてゆっくりと目の前の愛しい子を抱き上げた。

2015

『素敵な贈り物』

夜も更けて、もうすぐ年が明ける。
僕は彼女と自宅の居間でくつろいでいる。この後、零時を迎えたら初詣に行くのだ。
もう何度目かを数えるようになって、僕らの間の習慣になった。
やがて、近くのお寺から鐘の音が聞こえてくる。

新しい年がやってきた。

「あけましておめでとうございます。リンドウさん」
「あけましておめでとう、ゆき」

その年初めての挨拶を交わして微笑みあう。
もう何度も繰り返している習慣だけれど、今年は特別な年だ。

「少し早いけれど、ゆき。成人おめでとう」
「あ、そうですね。ふふ、ありがとうございます」

今年、ゆきは二十歳を迎える。
出会ってから四年間、僕は彼女を傍らで見続けてきたことになる。そして、それはこれからも続くことを願ってやまない。

出会った頃には知っていたことだけれど、彼女はとても努力家だ。そして献身的でもある。
この四年間勉学に励み、僕に心を砕き、周囲への気配りも欠かさない。本当に自慢の恋人と言うより他ない。
その恋人へ、大人になったら贈ると約束していたものを。

「ねぇ、ゆき。手を出して」
「はい、どうぞ」

躊躇いも疑いも無く差し出された掌を取って、甲に口づける。
そして、捧げるのは永遠に朽ちることのないリング。

「っ、あのこれ…」
「忘れちゃった?2年前に君が言ったんだよ。大人になったら欲しいって」

みるみる間に彼女の頬が紅潮していく。眦には透明の滴が漲り今にもこぼれ落ちそうになる。

「あの、これ…」
「嬉しい?そうじゃなかったら困っちゃうんだけど」

僕の言葉に、彼女が言葉にならず首を縦に振る。

「あとね、これだけじゃ芸が無いからもう一つ。これも一緒に」

ただ、ただ無言で感極まった様子の彼女に微笑んでから、昼頃大事に部屋へ移した特別な贈り物を運んだ。

「これも君に」

それは、白い薔薇の鉢植え。
この国で生まれた、君を思わせる名の真っ白な薔薇。
合わせて一冊のノートを添えて。

薔薇とノートを受け取った君が、ページをめくる。

「……っ!」

365日、この薔薇を君に贈ると決めてから毎日綴った観察日記。そして、君への一言。

「毎日、ゆきのことを考えなかったことはない。そう口で言うのは簡単だけれど、本当なんだよって伝えたかったから。書いてみた」

毎日、毎日。心を込めて。
君が愛しい。君が好きだよ。君を愛している。

「ちょっと気持ち悪い?重すぎるかな」
「……そんなわけないっ」

ついに声を上げて泣き出した君が、胸に転がり込んでくる。

「そんなわけない、そんなわけないですリンドウさん!」
「ふふっ、ひどい顔だよ。ゆき」
「だって、あんまりです。こんなもの貰ったら!」

嬉しくない筈がない。

そう言った彼女の涙でぐちゃぐちゃの顔がくしゃりと中心によって。

向けられた笑顔はこれまでで最高に素敵だった。

「今年も、その先もずっとよろしくね」
「はい」

【白薔薇の花言葉 心からの尊敬・相思相愛】

「神子殿、お願いがあるんだけど」

うららかな昼下がりと言うには、いささか太陽の照り付けが強い日の事だった。
折り入った様子のリンドウに驚いて、ゆきは思わず居住まいを正した。

「はい、なんでしょうか」
「これから話すことは内密にして欲しいのだけど、守れるかな」

季節は冬なのに、これまでは蓋のように瘴気で覆われていたものが取り除かれて、一層陽光が眩しく感じられる。
少し目を細めてゆきは答えた。
「もちろんですが、…まさかまた怨霊が」
「違う違う。まあ、怪物だとは呼ばれているみたいだけれど」
「怪物?」
言葉通り受け取って身を震わせる彼女に、リンドウは微笑んだ。
震わせるだけでなく、すぐさま身を乗り出す姿勢も、今となっては愛しいものだ。
「お願いとは浄化ですか。私、すぐに行きます。瞬兄と都に…!」
「ちょっと待ってってば」
立ち上がろうとする少女の手を取って、畳に縫い付ける。そのまま、空いた手で口を塞いだ。
ゆっくりと彼女の呼吸が穏やかになるのを待つ。口を覆っていた手を離しながら人差し指だけ立てて、唇の前に置いた。
「内密にって言ったよね。大丈夫、怨霊ではないよ」
「では…なんでしょうか」
普段は鈍いと言っても良いくらいお役目一直線なのに、握られた手と間近な顔、たったこれだけの事で頬を朱く染めている。
この愛らしいひとを誰にも見せたくないという気持ちはあれども、一直線な彼女だからこそ出来る仕事でもあるのだった。
これから頼もうとしている事は。

「あのさ、慶くんを連れ出してきてくれない?あの人、今日でもう、三徹目なんだ」
「えっ!?」
「だけど、本人は全く休む気がない。疲れは判断を誤らせるし、倒れられても困る」
「そうですよね…」
「皆困り果てているよ。あの人、言うこと聞かないから」
「あの、3日って本当に?大丈夫なんですか」
食いついた。リンドウは上げた口の端を隠したまま、言い募る。
「大丈夫じゃないから、お願いするんだよ。ねぇ神子殿、慶くんを執務室から引っ張り出して休ませて。他でも無い君だから出来ることだよ」
「そうですか…」
しかし、ふと冷静になると気掛かりがあるらしい。ゆきが再び身を乗り出した。
「あの、幕府の方やリンドウさんだって説得出来ないのに、私の話を聞いてもらえるでしょうか」
「その点は大丈夫。君は幕府の人間じゃない。まして、この世界の住人でもない。相手が将軍の後見役だって気にする必要はないのさ。多少強引で構わないよ。ガツンとやっちゃって」
「はぁ」
「なに、気が進まない?分からないでもないけど。それなら仕方が無いから倒れるのを待とうかな」
酷い話だよねぇ、ある意味怪物扱いは間違ってないのかな。あっさりと諦めた風に一人で呟くと、慌ててゆきが言った。
「私、行ってきます。説得してみますから」
「ああ、優しい神子殿に漬け込むようで申し訳ないね。でも助かるよ」
「任せて下さい!」
始めから狙い通り、大体想像していた通りの反応だ。申し訳ないほどに。
最後の仕上げとばかり、大袈裟にリンドウは告げる。
「それじゃあ、早速宜しく。何とか城からは引き摺り出したから、今は一橋邸に居る筈だよ」
「はい!」
席を立ったゆきを見送る。
自分が仕掛けたとはいえ、何とも複雑な気持ちもあって、リンドウは苦笑とともに溜息をついた。

 

勢いやって来たのは江戸城。一橋邸は江戸城にある。
考えてみれば、ゆきはリンドウを伴わずに城に入る術を知らなかった。
物々しさに圧倒されていると、門の前に一人の武士が現れて声を掛けられた。
「龍神の神子様ですね」
「はい。蓮見ゆきと言います」
気軽に名乗るなと言うリンドウの教えも忘れて告げる。
「はは、その物腰間違いないですね。斉基様にお聞きしていた通りです」
「貴方は」
「私は一橋家の家令です。お迎えにあがりました」
何とも飄々とした感じの男だった。歳の頃はリンドウと同じくらいだろうか。
屋敷へ向かう道すがら、家令の名や出身地などを聞く。
「私は、水戸から付き従ってきた者ではないのです。内向きの仕事が多いので、それ程困ってはいませんが…」
「はい」
「今の殿に慣れるまでは苦心しました」
「そうなんですね」
「何しろ、お考えが全く読めないのです。先回りしてお世話するのが仕事なのに」
いやぁ、参ったと笑う。
「でもね、一つ分かったこともございます。あの方は、あれで押しに弱い」
そんな風に思ったことは無かった。
困惑が顔に現れていたのだろう。家令が言う。
「情が無いように言われますが、優しい方です。なに、神子様ならなおのこと。強くお願いすれば大抵の話は聞いてくださいますよ。さて、こちらです」
屋敷について、慶喜が篭っているらしい部屋の方を指すと、あっさり一礼して下がっていった。
強気に行けとは、リンドウも同じように言っていた。
改めて居住まいを正してから、息を吸う。
「こんにちは。蓮見ゆきです。入っても良いですか」
大きな声で言ったつもりだが、中から返事はない。
「あの、蓮見です。慶喜さ…」
もう一度、声をあげると中から小さく「入れ」と返ってきた。
「失礼します」
襖戸をあけると、部屋の中央に置かれた文机に向かうピンと伸びた背中が見えた。
文机の隣には山となった書類と思しき紙束やら巻物、書物がきれいに積み重ねられていた。おそらく左の山が未決済で右の山が決済済みのものだろう。左から取り上げた書簡に目を通した後、なんらかを走り書きすると右の山に積んでいく。見たところ、大分片付けたのか少しばかり左の山のほうが低い。
「何ようだ」
こちらには振り向かないまま、慶喜が声を投げる。
「慶喜さん、私と散歩に行きませんか」
唐突な誘いに、休むことなく動いていた手が止まる。たっぷり時間をとってから、おもむろにこちらに振り向いた。
「今なんと言った」
「一緒に散歩に行きましょうと言いました」
「いつも突拍子もないとは思っていたが、今日は格別だな」
「そうでしょうか」
「自覚が無いのか」
やり取りのあと、慶喜は大きなため息を吐いた。
「大方、リンドウに何か言われて来たのだろうが、余計な気遣いは不要だ。相手をする暇が無い。今日は帰れ」
そこまでは織り込み済みだったとばかりに、告げられる。ゆきが黙ったのを見届けて、再び文机に向かい筆を走らせはじめた。
ここで引いたら、今度はリンドウに大きなため息を吐かれるのがオチだろう。早くもゆきの立場は微妙になる。
「えっと…、散歩は嫌ですか。それなら、少し休憩して眠りますか」
返事は無い。
「慶喜さん聞いていますか。散歩が嫌でしたら、違う方法を考えましょう」
返事は無いが、再び筆を走らせる手が止まった。
「どうしますか」
「どうもこうも無い」
「それなら、私が考えましょうか」
「いい加減にしないと、すぐさま追い出すぞ」
「駄目です、ちょっと待ってください」
早くも堪忍袋の緒が切れそうな様子の慶喜に、ゆきは慌ててにじり寄った。
「邪魔してごめんなさい。でも、私の話を聞いてください。本当に3日も寝ていないのですか」
今日はじめて間近で顔を見上げる。目線を合わせれば、確かに目の下には色濃い隈が出来ているのがわかった。
「知らん。そのくらいは経っているかもしれんがな」
「倒れてしまいますよ」
「倒れたりはしない」
「そんなこと分からないじゃないですか」
「分かる。俺は倒れたりしない」
予想以上に、相手は頑固だった。そして、堂々と屁理屈をこねる。
「お願いです。少し休みましょう」
「断る」
「少しだけです。ちょっと横になるだけでも違います」
「断る」
相手も頑固だが、ゆきも大概頑固だ。言い出したら引かないところがある。
「体を壊したらどうするんですか。慶喜さんには責任があります、皆心配なんです」
強く言い切ると、再び慶喜がゆきの方を向いた。間近に顔を見合わせる形になる。
「…分かった。少し休もう。わざわざご苦労だったな」
「はい、良かった」
ようやく、休むことを了承した慶喜に、ゆきは安堵したように笑み崩れた。そのまま、笑みを向けて座ったままで居ると、目の前の人が居心地悪そうに言う。
「どうした、退出しないのか」
「え、なぜですか」
「お前は、リンドウに私を休ませろとでも言われてここに来たのだろう。私は休むことを了承した、それで終いではないのか」
「それは…そうですけれども」
じっと見つめると、ますます居心地悪そうに眉をひそめる。
「後は無用だ。早く戻って報告するといい」
「…慶喜さん。休む気ありませんね」
「疑うか。男に二言は無い」
「でも、嘘つく時の瞬兄にそっくり。急に聞き分けよくなるけれど、素っ気ない」
これには、慶喜も苦り切った表情をせざるを得なかった。
無言のまま、再び文机に向かう。
「あ、やっぱり。休まないじゃ無いですか」
返事をしない慶喜に向けて語気を強める。
「私、慶喜さんが寝るのを見届けるまで帰りません」
「駄目だ、帰れ」
「男に二言は無いと仰いましたよね」
返す言葉が無いのか、目線だけがゆきの方を向いた。
「こんな女人は初めてだ…」
「どんな女人ですか」
実に苦々しい表情で慶喜は溜息を吐いた。
「寝る。この場で適当に横になる」
腹を括ってしまえば、後は面倒だからその場に転がるだけだ。筆を置いてそのまま後ろに寝転ぼうとした時だ。
「あ、こちらにどうぞ」
ゆきが膝を差し出したのは。
「待て、神子」
「はい、何でしょう」
「その膝、どうするつもりだ」
「頭を置いてください」
一気に眠ろうという意欲が萎えた。
「一体どうしたら、そんな言葉が出てくる」
「え、だって祟くんが眠い時はいつも膝をかしてって言うから…。都も良く眠れるって」
リンドウと瞬が聞いていたなら、こめかみを引き攣らせたことだろう。
慶喜自身も、どんなに疲労したとしても滅多に無い目眩を覚えつつ、何度目か分からない溜息を吐いた。
「不要だ。退いてくれ」
「なくても眠れますか」
「いっそ、眠気も失せたがな…」
これは失言だった。気付いた時には遅い。
「そんな、膝を使って下さい」
「何故そうなる…」
「この方が良く眠れるって、祟くんと都が…」
言い返せば堂々巡りになると分かっている。しかし、言わない訳にいかない。
「冷静に考えろ。脚の上に人の頭などおかしいだろう」
「そうでしょうか」
「ならば言い換えよう。身内や子供ならいざ知らず、他人の男が…不気味ではないのか」
「確かに慶喜さんは身内ではありませんね。でも、不気味だなんて…」
思いません。と、ゆきは言い切った。
いざ、緊張感が途切れてからと言うものの、慶喜は眠くて仕方が無いし、この分からず屋の少女に言い聞かせる言葉が上手く浮かばない。
それならば…と、魔が差す。
「分かった。ならば膝を借りよう」
「はい」
本当に嬉しげに返事をするからたちが悪い。
半ばヤケになって頭を預けてしまう。少女の脚は細くて、お世辞にも寝心地が良いというものでは無かったが、女特有の柔らかさは感じられた。
(まったく…、何をしているのだ、俺は)
少しばかり根を詰めて働き過ぎたばかりに、こんな目に遭うとは。
男を慰めに来た女相手ならば、膝の上で如何様にも過ごしようがあるが、よりによって、これは神子だ。
龍神の遣わせた神子。
首謀者たるリンドウに舌打ちしそうになったが止めた。
恐らく、あの男もこんなことになるとは思っていまい。知られれば面倒に巻き込まれるのは此方である。
慶喜は、仰向けのまま眼を瞑った。こんなに眠いのに、眠りは訪れそうに無い。
「…慶喜さん」
そっと確かめるようにゆきが呼んだ。片目を開けて見上げる。
少女の双丘が真上に見えたが、控えめなそれに妨げられることはない。
表情を見るのに困るようなことは無かった。本当に、「少女」なのである。
「眠れませんか」
彼女の問いかけには応えず、腕で視界を遮った。昼間で明るかったということもあるが、一度見上げてしまった曇りない少女の顔を再び見るのは辛いように感じる。
ふと、腕に華奢な両の手が触れて退かされると、羽根のようにふわりと手のひらが目蓋を覆った。
「眩しかったんですね」
「お優しいことだ」
ごく自然な仕草に、思わず呟いた。
慶喜はそのまま続けた。
「それでは、眩し過ぎる」
告げて身体を傾ける。神子の腹の方に向きを変えて頭を俯ける。
さながら、母親に身を預ける童子のように、しかしその細い腰にまわしたのは間違いなく成人した男の腕だ。
まさか、腰を抱かれるとは思わなかったのだろう。ゆきは肩を揺らして身じろいだ。
だが、それも一瞬で、すぐにまた羽根のように柔らかい手のひらで目の前の頭を撫でる。
恐るべき順応性に慶喜が閉口していると、ゆきが笑った。
「急にどうしたんですか。これで、眠れそうですか」
少女の薄い腹から額を離して、再び見上げると、優しい微笑みにぶつかる。
やましいところなど、何も無いかのように。
事実、何も無いのだけれど、慶喜は何処か残念に感じてしまった。
「こんな女人は初めてだ…」
先と同じ言葉を呟く。言葉尻だけ拾ったのだろう。聞き返すように、ゆきが首を傾げた。
「膝を借りよう。…ありがとう」
飾らない言葉に、少女は満面の笑みで応えたのだった。

「なに、その猫」
蓮水家に尋ねてリビングに入ると、ソファに毛の長い猫が寝そべっていた。
「お隣さんがしばらく留守にするので預かっているんです」
ゆきはそう答えると、台所に向かってお茶の用意をする。
今日は、週に一度のデートの日。本当ならどこかへ出かける所なのだが、ゆきの希望で蓮水家へやって来た。
リンドウは、向かいのソファに座ると件の猫を見つめた。ゆっくりと伸びをした猫と目があう。
「やあ、猫殿。随分と慣れた様子じゃないか」
「リンドウさん、猫さんとお話してるんですか」
「冗談じゃ無いよ。なんで、猫と話なんてしなきゃならないの」
ゆきは、リンドウに紅茶を渡すと猫の居る方のソファに座った。すると、猫がのっそりと起き上がって、あろうことか彼女の膝の上に身体を移した。
思わず、紅茶を吹き出しそうになって慌ててテーブルに置く。
「あ、こら!」
「どうしたんですか?」
「どうしたんですか?じゃないよ。猫を膝に乗せるなんて駄目だよ」
「え、でも大人しくて良い子ですよ」
ゆきが毛を撫でると、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
「そういうことじゃない。もし爪を立てたら足が傷つく」
「この子はそんなことしませんよ」
暢気な様子で笑うゆきを見て、リンドウのフラストレーションは溜まるばかりだ。
(大人しいのは結構。でもそういうことじゃないんだよね…)
リンドウの焦りを知ってか知らずか、なおも猫はのんびりと、時折あくびをしたりして、ゆきの膝を堪能している。
「ちょっと猫殿」
リンドウが呼びかけると、こちらを向いて目を合わせてきた。なかなか挑戦的なやつである。
「リンドウさん、猫殿なんて呼んでいるの?」
「一応初対面だし、親しくないからね」
「そう…なんですか」
なおも見つめていると、猫が立ち上がる。そして、ゆきの胸元に前足を掛けて二度三度と鳴いた。ゆきが慌てて猫を抱き上げる。
「あら、どうしたの。リンドウさんが怖かった?」
「はぁ!?それはないよ」
「だってリンドウさん、さっきからずっと怖い顔でこの子を見つめているから」
ゆきの胸元から顔を出した猫の顔は、どう見ても怖がっているようには見えない。むしろ、勝ち誇っているかのように見えた。
「もう、堪忍出来ないね」
強行突破を決めて、リンドウはソファから立ち上がると、ゆきの隣へ腰掛ける。
そして、ゆきの膝に向かって寝転がった。
「きゃ!」
驚くゆきにはお構いなしで、手で膝を良い位置へ寄せる。
「あのね、この膝は僕の」
「ええ!?」
「大体、膝以外にも。ゆきは全部僕のものなんだから、猫に貸し出す部分はないよ」
「もう、何言っているんですか」
「馬鹿だと思うなら、思っていいよ」
「そんなこと…思いませんけれども」
すっかり困惑して、ゆきは自分の膝に頭を預ける青年の顔を見た。隣に下ろした猫も、不思議そうな顔でリンドウを見つめている。
「もしかして、リンドウさん、猫が嫌いでしたか?」
「ううん。猫は好きだよ」
「なら…」
「でも、ゆきに必要以上に近づく猫は嫌いだね」
必要以上にって、どこまでなのか。線引きはリンドウ次第だから、果てしなく曖昧だ。
「リンドウさんのヤキモチ!」
「何とでも言いなよ。僕は心狭いよ。君のことに関してはね」
「ずるいです。そういう言い方」
「知ってるくせに」
ひとしきり言い合ってから、リンドウは目を開けて、見下ろすゆきを見つめた。
「ごめんね。君の言うとおり、ちょっと嫉妬した」
「猫に嫉妬なんて、失礼です」
「うん。ごめんね」
「リンドウさんは、私が猫とリンドウさんも区別出来ないと思っているんですか。私に失礼です」
「ごめん」
「あと、猫さんにも失礼です。この子は別に悪いことしてないのに」
「ごめん…と言いたいところだけれど、それは別」
ちょっと唇をとがらせたままで、ゆきが首を傾げた。
「だって、そいつが君の膝に座ったのは事実なんだから。それは許せないよ」
「もう!」
「大体さ、君だって例えば僕の膝の上を猫殿が独占していたとしたらそれでいいの?」
言って起き上がると、リンドウは猫を呼んだ。思いのほか抵抗なく猫はやってきて、膝の上に座る。
「うわ、ふわっふわだ。確かに膝の上に乗せておくと中々気持ちが良いね。よしよし…」
さっきまでとは一転、膝に乗せた猫を撫でながらリンドウが嬉しそうに言う。
毛を撫で、あご下を搔いてやる。猫は嬉しそうに鳴いている。
さっきのリンドウの言葉が頭に残っているせいか、次第にゆきもモヤモヤとしてきた。
「…あの、リンドウさん?」
「なぁに?」
してやられたことにゆきが気づくのはもう少し後である。

【おしまい】

「うん…と、えいっ!」
思い切りつま先立ちで伸び上がって見るが、指先は触れそうで触れない。着物というものの構造上、両足が一緒に包まれてしまっているから、片足を曲げて勢い良くという訳にもいかない。さらに、腰も幅広の帯で締められているから、こちらも伸ばすには限界がある。
一旦かかとを落として、息を吐いた。さあ、ほらもう一度。
「えいっ!」
ようやく、指先が目的の箱に触れた。思わず口の端が上がる。あと少し…。
「何をやっている」
指の第一関節を曲げてようやく掠った箱が、再び届くことのない中空に浮かび上がるのを見た。
箱を掴む腕を伝って背後を見れば、良く見知ったひとの顔。
「慶喜さん」
「高いところの物を取るのなら呼べ。危ないだろう」
そう言って、彼は取り上げた箱をゆきに手渡した。
「ありがとうございます」
「構わぬ。他にも必要なものはあるのか」
「いいえ、これだけです」
礼を言ったあと、ゆきが見上げると目が合う。
「どうしましたか?」
尋ねれば、おもむろに大きな掌で頭を撫でられた。
「慶喜さん?」
「ああ、気にするな」
気にならない筈が無いのに、無理な注文をする。とりあえず目的のものは手に入ったので、疑問を胸に閉まって土間から取って返そうとしたときだ。ここ最近良く聞く猫の声がした。
「あら、お前また来たの?」
「ん?」
外へと続く戸口の方を見ると、白地にぶちの入った猫が居てこちらへやって来ようとしている。
「ほう、三毛猫か。珍しいな」
「こら、入ってきちゃだめなのよ」
いつもは、炊事場に向かう途中などに構ってやるせいか、物怖じせずに近づいてくる。ゆきは、慶喜が気になってちらと彼の方を見上げた。比較的小綺麗とはいえ、野良猫だ。近づけてしまって大丈夫なんだろうか。
そんな、ゆきの心配を見透かすように、ふと猫がこちらに向かって走り出した。
「あ、駄目よ!」
咄嗟に前へ出て猫を受け止めようとする。そもそも、毎日構ってやっているのはゆきだ。こうして前に出れば猫もこちらに来るのでは無いかという計算もあった。
しかし、ゆきの思惑むなしく、猫は真っ直ぐに慶喜の元へ走り寄って足下に身体を擦りつけたのだった。
「あぁ…」
「なに、大丈夫だ。……猫よ」
慌てるゆきを制して慶喜が猫に呼びかける。
「よく、ここに来るようだな。ゆきの手を傷つけたりはしていないか。うん?」
慶喜が屈み込んで猫のあご下を搔いてやると、文字通り猫なで声を出す。
「ずいぶんとなりが良いがどこの者だ。事と次第によっては、ここに置いてやらんでもないぞ」
その姿は妙に堂に入っていて、慶喜は楽しそうだ。基本的に何でも人並み以上に出来る人だが、まさか動物の相手も含まれるとはゆきも考えていなかった。
小さく息を吐いてから、隣へ一緒に屈む。
「もう、あなた薄情ね。いつも私と遊んでいるのに、今日初めて会ったひとの所へ走っていってしまうのだもの」
「見る目があると言うことだろう」
「それ、どういう意味ですか…」
慶喜が大人物なのは確かなのだけれど、自分より価値があると猫があっさり判断したのだとしたら、少し寂しい。
「お前と遊ぶにしても、邸に出入りするにしても、俺の許可が要るのを察したのかもしれんぞ。なら、見込みのある猫だ」
何やら誇らしげに言う姿を見て、思わず吹き出してしまった。
「ふ、ふふっ…」
「笑うな。俺はまじめに言っているぞ」
「だって…」
ちなみに、猫はすっかり慶喜に執心でその手にまとわりつくように身体をすり寄せている。
「どこの猫か調べさせよう。もし、飼手が居ないというのなら、邸に居る許可を与える」
「いいのですか」
「構わんぞ」
「ありがとうございます」
ゆきが礼を言って顔を上げると、また目が合った。
「慶喜さん?」
「ああ、気にするな」
返答もやっぱり同じだ。ゆきが首を傾げると慶喜が笑う。
「ゆき、猫は好きか」
「はい」
「俺もだ。他に、馬も好きだがな」
「どうしたんですか」
立ち上がって歩き出した隣に並ぶ。
「こうして動物と戯れるなど、平穏な暮らしの証拠だ」
「…そうですね」
微笑んでから、ゆきはそっと手を伸ばした。指先に触れると、掌が絡められる。
足下には、件の猫が付いてきていて嬉しそうに鳴いていた。

【おしまい】

「はぁ、もういい加減にしてよね」

およそ晴れの日らしからぬ口調でリンドウがぼやいた。
「なんでぇ、折角の嬢ちゃんが居る正月だ。ちっとくらいはいいじゃねぇか」
「ちょっとねぇ…」
ゆきが、龍神の神子としての務めを果たして初めて迎える江戸の正月である。
ようやく小うるさい小姑たちも元の世界へ還した。  二人水入らずで過ごしたいところだが、正月は忙しいのが常である。
「まぁまぁ、もう一杯どうだい」
「あのさ、龍馬くんは国に帰らなくていいのかな」
「心配ご無用。呼んでくれたところが俺のふるさとってさ。人とのご縁に勝るもの無し。生まれの故郷は心にあればいいってもんじゃぁないんかね」
「よっ、龍馬よく言った!」
「へへっ、そりゃあ師匠がいいからなぁ」
恒例のあいさつ回りの最後に勝の邸を選んだのが間違いだった。
すっかり出来上がった龍馬と、もともとノリのいい安房守に捕まってしまってこの様である。
「しかし、お目付けは酒に強いな。俺ぁここまでの御人は久しぶりに見たぜ」
「公家育ち舐めないでよ。年がら年中行事で酒を飲まされるけど、酒に呑まれたら終わりだからね」
「ははぁ、そりゃ確かにそうだ。土佐ものは茶のように酒を飲むけど、宮仕えも大変っちゅうことか」
それにしたって、土佐の空吸は酷い。
正月から無骨な器を持ち出して底が尖っているから置くことが出来ない。歓迎の証にしたって、この調子で飲まされ続けたら体が持たないだろう。
ふと、横に目をやると、その空吸を手にしたゆきが笑みを浮かべて勝に相槌を打っている。
あんなにか細くて儚げなのに、この正月独特の耐久戦によくも倒れないものだ…と、妙な感心をしてしまう。

◇◇◇

はっきり言って、正月は忙しい。
それは武家でも公家でも大した違いはなく、元旦からてんてこ舞いだ。
特に、この世界、この江戸を守った功労者たる神子殿が初めて迎える正月ということで、当然のことながら、あちらこちらに引っ張り出されることになった。
断れば良いものを、彼女はそれにほとんど全部応えている。

まずは、元旦。
明け六つ半には登城して将軍以下幕閣達に年賀の挨拶をする。
異例中の異例だが、龍神の神子を伴いあいさつ回りをすることになったリンドウは大変だった。
ただでさえ、中間管理職はあいさつ回りの数が多い。  常なら正午には退出できるところを、とりあえず上司連中全員にあいさつを終えた頃には日が暮れていた。
しかも、ようやく退出しようとしたところで一番の上司に捕まったのがいけなかった。

「神子、あいさつ回りは終えたのか」
廊下の途中で声を掛けてきたのは一橋慶喜。  龍神の神子の活躍で次期将軍の地位を確約された実質の幕府第二位のひとだ。
派閥争いの最中、幕臣「小栗忠慶」に身をやつして駆け回ったのも記憶に新しい。

「はい。先ほど終えたところです」
ゆきが律儀に答える。
「朝から今までずっとか」
「そうです。思いのほかごあいさつをする先が多くて」
慶喜は少し疲れた様子で告げるゆきを見てからリンドウに視線を合わせた。
「さもありなん…と言ったところだが、少々神子には酷であったろう」
「僕のせいじゃないですよ。貴方達幕閣の人数が多いのが悪い」
皮肉を返せば咳払いをした後、再びゆきに向き直る。
「神子、餅は食べられるか」
「はい。大好きです」
「ならば、邸に寄っていくといい。雑煮を馳走してやろう」
「わぁっ、嬉しいです!朝早くからずっとごあいさつでお腹が空いてたんです」
「ちょっと神子殿…」
少しばかり嗜みの欠けた物言いにリンドウが思わず苦言をする。
一方、慶喜は裏表のない様子に満足気に微笑んだ。
「腹が減っているなら、御節も出してやろう」
「はい、黒豆とかお煮染め美味しいですよね」
「それが好物か?」
「あ、錦玉子も甘くて食べると幸せになります」
「安上がりなことだ。好きなだけ食べたらいい」
言いながら、二人は邸の方に向かって歩いていってしまう。
明日も引き続きあいさつ回りがあるゆえに、早々に引き上げるつもりが大誤算だ。
どことなく渋り気味になる足取りに”美味い酒と肴もあるぞ”と慶喜が付け加える。
溜息を一つついてからリンドウは二人の後を追ったのだった。

結局、一橋邸を辞したのは夜も更けた頃になった。
出された膳は、どれも正月料理とは思えぬ程美味しくて、舌と目を楽しませてくれるものだった。  加えて、酒も上等で美味いものだから、つい長居してしまった。
「とっても美味しかったです」
土産に栗金団を持たされたゆきは、嬉しそうに微笑む。
「御節料理は、君の世界でも食べるの?」
「はい。お家の御節は何段かの重箱にお料理を詰めてありました」
「へぇ。節会の儀式みたいだね」
「儀式…はやらないですけれど、お屠蘇を飲んだりはします」
「なるほど、興味深いね」
「こちらでは、大皿に御節料理を盛るんですね。あんなに沢山のお皿が並んで驚きました」
正直なところ、思いのほか一橋家の人々が龍神の神子に好意的で、あそこまでのもてなしを受けたことにリンドウ自身も面食らったのだが、慶喜も珍しく楽しそうにしていたこともあり、穏やかな気持ちで帰途に着いたのだった。

二日目。 再びあいさつ回りに繰り出す。
とりあえず上役たちへのあいさつは元旦に済ませたこともあり、二日目は主にゆきの御伴で知人の邸を回る。
かつての八葉たちを中心に、訪問すればお屠蘇をすすめられるのだが、ゆきに飲ませるわけにはいかないと杯はすべてリンドウが受けた。
大体、20~30軒近くを回るのだ。上役からでなければお断りしたところで角が立ったりはしないのだけれども、元来酒好きな連中なことに加えて、ゆきを挟んだ複雑な感情からちょっとした意地悪もあるのだろう。 桜智を除いてほとんどの邸で押し売り的に酒を飲まされることになった。
「チナミくんに総司さん。アーネスト、桜智さんはご挨拶できたけれど。…龍馬さんはどこへお出かけなのかな」
本拠地が江戸に無い連中のうち、龍馬は江戸に留まっているというように聞いていた。
それで、馴染みの宿屋に向かってみたものの、前日から留守にしているという。
「彼も知り合いが多い身だし、あちらこちらあいさつに回っているんじゃないのかな」
「そう…ですね。少し残念だけれど、また日を改めることにします」
「そうしたら、後は薩摩藩邸に寄ればあいさつ回りも終わりか」
「はい。平田さん元気にしてるかな」
ぐるりと回って最後は薩摩藩邸の小松を訪ねる。
彼もまた年明けからの政権交代やら何やらを控えて、江戸で年を越していた。
藩邸は年始ということもあってか、ひっきりなしに人が出入りしていて、これでは小松に対面するのも一苦労と思いきや、そこは龍神の神子の来訪である。
「まったく…休む間もないね」
飲めや唄えやの賀詞交換の場とは別室に通されてからすぐに小松は現れた。
「小松さん、あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう、ゆきくん。お目付け殿にも、今年もご縁は切れそうにありませんね」
「ご縁が切れなくて申し訳なかったね。まぁ、色々と幕府も変わるけれどよろしく頼むね」
茶と酒を女中が持って来たのに合わせて、開けられた障子戸の隙間から白い猫が滑り込んでくる。
「わ、平田さん。今年もよろしくね」
ゆきが膝元までやってきて体を摺り寄せて気持ちよさそうにしている猫の背を撫でる。 その光景は、相変わらず穏やかでついさっきまで冷たい会話を交わしていた男たちも眦を下げた。

『おーい、帯刀どこいったー』

ふと、どこかで聞いた声がして小松がため息をついた。
「この声…」
「ゆきくん、お察しの通りだけれど返事をしたら駄目だよ」
声と足音が近づいたかと思うと、再び遠ざかっていく。
「ほら、見つからないうちに帰った方が身のためだよ。案内させるから」
「でも…」
「帯刀くんの言うとおりだと僕も思うよ」
リンドウが、ためらうゆきを促して座を立とうとした時だった。

「おっ、こんなところに居たのか…ってぇ、お嬢!?」

がらりと廊下側の障子戸が開いて龍馬が現れた。
相当酒を飲んでいるのだろう。いつも以上に陽気な雰囲気で顔も赤い。
「あけましておめでとうございます、龍馬さん」
「おう、おめでとさん!今年もよろしく頼むぜ」
ゆきが声をかければ嬉しそうに言葉を返す。
「こりゃあ、幸先のいい。まっさか、ここでお嬢に会えるとは」
「お宿に訪ねたら、龍馬さん外出されてると聞いたから。私も会えて嬉しいです」
「こら、あんまり増長させるようなことを言うもんじゃないよ、神子殿」
「そうだよ、ゆきくん。あのね、龍馬。私はこの邸を志士連中の社交場として明け渡したつもりは無いんだけれど」
「いやぁ、ここに居ると人が集まってくるから助かるぜよ」
「君もあいさつ回りに行かなくていいの」
いたいけな少女が酔っ払いに絡まれるのを防ぐべく、リンドウと小松が横やりを入れれば龍馬が思い出したように手を打った。
「そうだった。勝先生のところにあいさつに行くんだった!」
「なら、さっさと行きなさい。ゆきくんも今はどこも騒がしいからまたおいで」
「はい。お邪魔しました」
「いつでも歓迎するよ。正月明けには高杉たちもまた江戸に来るようだしね」
「そうしたら、また改めて来ますね」
小松に暇を告げて邸を出ようとすれば、龍馬が慌てて追ってくる。
「お嬢にお目付けも、この後の予定はどうなってるんだい」
「どうもなにも。邸へ帰るよ」
「それならさ、俺と一緒に勝先生の邸へ行かないか」
「お断りするよ。僕は直接関係ないし」
「つれないなぁ。なら、お嬢はどうだい?」
「私は…」
ゆきは、途中で口をつぐんでリンドウを見上げてくる。
こういう時は、行きたい気持ちはあるけれどリンドウの様子を伺っているという場合が多い。
(君の選択は多分間違っているよ…)
そう言ってやりたい気持ちもあったけれど、この先ゆきが江戸で生きていくのに知己は多いに越したことはない。
いざという時は、自分が盾になればいいか。
「ゆきがしたいようにしていいよ。僕はついていくから」
そんな覚悟を決めて彼女に告げれば、ゆきは嬉しそうに龍馬へと了承する旨を伝えたのだった。

◇◇◇

そして、場面は勝の邸に戻る。
勝の邸も、薩摩藩邸に劣らず人の出入りが激しい。
その中で挨拶やら議論やら談話やら。のべつまくなしに飲み食い会話が消費されていく。
調子にのった龍馬が地の酒と空吸を持ち出して果てない宴席が続いていた。
こういった場には慣れているリンドウでさえ食傷気味なのに、お茶だけを伴に微笑みながら嵐の渦で相槌を打ち続けるゆきは、ある意味大物かもしれない。
それでも、少しうとうとと眠気に襲われているのが見えて、リンドウは一気に酒を飲み干すと座を立つ。
「安房守、さすがに連日連れまわして彼女も限界のようですので、我々はお暇します」
視線でゆきの方を示せば、勝も納得したようだ。
「そうかい。楽しい正月を過ごせたと嬢ちゃんにも礼を言っといてくれ」
「ええ、伝えます」
「食えない目付との話もなかなか面白かったぜ。あんたの食えない上司にもよろしくな」
「はいはい。承知しました」
にやりと笑んだ勝にこちらも笑みを返すと、ゆきの腕をとって邸を後にした。

朝から出たまま、夜四つを回っていた。
ようやく自邸に戻ったころには、駕籠の中でゆきが小さく寝息を立てていた。
起こしては可哀想だとリンドウが抱き上げると、眠いせいか彼女がぎゅっと首に腕を回してくる。
「ゆき、もうすぐ君の部屋につくよ」
「は…い、ありがとうございます」
眠そうに目をしばたたかせながら、ゆきが言う。
「みんなに会えて嬉しかったけれど…でも、やっぱりここが一番安心します」
「ここって…」
当然、この邸のことを言っているのに違いないのだけれど、こうやって抱き上げている状況下で聞くには甘すぎる言葉だ。
「ねぇ、ゆき。明日は二人でゆっくりしよう」
そうリンドウが耳元で囁くと、眠りに落ちる寸前の口元に笑みが浮かんだ。

これからも二人で

「たまには、こんなのもいいかな」
そう言って、リンドウは、背後からゆきを抱きしめる腕に力をこめた。
いつもなら絶対に誘われても乗らないだろう、冬空の下のクラシックコンサート。
ゆきの不思議そうな顔に気付いてリンドウが言葉を継ぐ。
「君、勘違いしてるよね。僕は別に外出するのが嫌いな訳じゃないよ?」
「でも、寒いのは嫌いでしたよね?」
寒いのが好きなひとなんているのかな、と彼は応えて、ゆきの頭に顎を載せた。
「リンドウさん、重いです」
「ああ、でもこうやって君を抱きしめる理由にはなるから悪くないかな」
「リンドウさんってば」
「はいはい」
いなす様に言って、二人を包む厚手のストールを羽織り直す。
ふっと、辺りの照明が抑えられて暗くなった。
薄暗闇のなか、あたりはイルミネーションの光の海だけが浮かぶ。
「すごい、お星さまに囲まれてるみたい!」
珍しく興奮した様子で振り返る彼女に、思わず笑みがこぼれた。
「ほら、もう演奏が始まるよ」
周囲から拍手が聞こえるのに気付いて、ゆきが慌てて前に向き直る。寒気に鼻を擦って少し赤い。
赤い鼻をぬぐってやりながら、そのまま腕を回して抱きしめる。

新年の足音は聴こえていて、間も無くカウントダウンが始まるだろう。
耳慣れない西洋の楽器が奏でる壮大で華やかな幕開けも悪くない。

小さな声でゆきが囁く。
「年が明けたら一番に言いますね」
「なにを?僕が好きって?」
クスクスと笑い声を漏らす。
「リンドウさん、好きですよ。それと…」

カウントダウンが始まり、ゆきは一旦言葉を切って、数字を数えはじめた。

「…3、2、1」

破裂するような音と歓声の洪水の中で彼女が言った。

「リンドウさん、大好きですよ。今年もよろしくお願いします」

「こちらこそ」

新しい年も、この先も。

 

これからの二人へ

新年を迎え、初詣の後にリンドウ宅に立ち寄る。
お節料理やお雑煮などは、この後、一緒に蓮水邸で頂戴するとして、しばしの休憩だ。

お茶請けを前に箸が差し出される。
和紙の袋に入った両端を削ったものだ。

「お正月のお箸ですね」
「うん。祝い箸だよ」

ゆきは、笑顔で受け取って、しばし手にしたまま箸袋を眺めた。
心なしか、家で用意されるものと違うような気がしたのだ。
同じような、真白い和紙に包まれてはいるものの、そこはリンドウのこだわりもあって、少し違うのかもしれない。

ふと、流暢な筆致で書かれた文字に気づく。よく見れば、

「これ、私の名前ですか?」
「よく気付いたね。まあ、これが新年一番最初の君への贈り物かな」

リンドウの意図する所が分からず首を傾げる。

「祝い箸は、お正月に限らず神様をお迎えする日に使うもので、柳の白木で作るんだよ。柳は長寿を意味するし白木の香りは邪気を祓うものだから」
「そうなんですね。私、よく知らないで使ってました。でも…」

先ほど気付いたことを尋ねる。

「お箸に私の名前が書いてあるのは?」
「それは、年神さまが君のことを忘れずに守ってくださるように。目印かな」

龍神の神子な訳だし、忘れられるはず無いけどね。
そんな風に言いながら湯呑を置くと、リンドウはテーブルの向かいに腰掛けた。

「まぁ、陰陽師の僕が書いてる訳だし、御利益は二割増し位に思ってくれれば…」
「じゃあ、リンドウさんはお正月には沢山お箸に名前を書いてたんですね」
「え?なんで」
ゆきの返しにリンドウが驚いたように瞬きした。
「だって、これは陰陽師のお仕事ってことですよね?」
これには、慌てて返答がある。
「違う違う。全然そんな関連は無くて…。ごめん、僕の余計な話で勘違いさせた」
再び首を傾げるゆきに、リンドウが告げる。
「これはね、普通は一族や一家の家長が、家族の分書いてあげるものなんだよ」
「家族のために?」
「そう。あいにく、僕が一家の長であったことは無いからね。貰うことはあっても、あげたことはないよ」
「それじゃ…」
箸を手に、ゆきが俯く。
「ゆき?」
リンドウが伺うように声をかければ、ゆきは満面の笑みで顔をあげる。
「私が一番ですね!リンドウ一家の一番最初です」

これは、あまりに不意打ち過ぎて。
打算無くやったことに対して返ってきた効果はどれほどだろう。

「…本当に君は最高の神子だ」
「リンドウさん?」

リンドウが、思わず赤くなった頬と緩んだ口元を手で隠しながら告げる。

「最初で最後。ずっと一番は君だ」
「はい。嬉しいです…?」

ゆきは、顔を隠すリンドウを覗きこんだ。

「君は僕の運命のひとだからね」

ゆきが褒美を賜った。
褒美というよりも、たわいのない贈り物へのお返しである。

バレンタインデーを模して、菓子を配ったのだ。

実は、その贈り物は八葉に加えて周辺の幾人かにも配ったので、返ってきた品も様々である。
まず朝一番に、桜智から大量の生花を贈られたのを筆頭に次々とゆきの部屋に運びこまれていた。

「高杉殿、桂殿は郷里の酒か」
「まあ、らしいっちゃらしいな」
都とチナミが、ゆきの前にズラリと並ぶ品を品評する。
「梅の花と歌もついている」
「そういうところあるよな、あいつ」
「こちらは、坂本殿からだな」
小花模様の風呂敷に包まれた組み木の小箱だった。
「ちょっと可愛いのが癪だけど、結局は旅の途中の土産だよな。これ」
都の辛口にチナミが若干怯んだ。
しかし、意を決したのか背中に隠した包みを差し出す。
「これは、沖田と…俺からだ」
「わぁ、うさぎのお饅頭とお団子だね」
それを見たゆきが嬉しそうに目を輝かせた。
「まあ、お前らはそんなもんだよな。上出来なんじゃない」
「先から感じていたが、八雲はどこから目線で品評しているんだ…」
都の弁にチナミがボヤく。
ついでに、都と瞬からゆきへのお返しも菓子である。ある意味外してはいない。
ここまでさらりと流してきた都がふと姿勢を正した。
「さて、ここからはちょっとモノが禍々しいんだが…」
目の前に鎮座するのは、赤い漆塗りに螺鈿細工を施した眩しいばかりの鏡台である。小松からだ。
使いに来た薩摩藩士曰く、

「神子殿は華美を好まれず、大仰なものは受け取られないとのことでしたので。
ささやかではありますが御家老からはくれぐれも宜しくと…」

云々、ということらしい。
「これをささやかだと言い切る感覚が分からない」
「まあ、小松殿の地位とお立場を考えれば控えめではあるのだろうな」
「あと、問題はこれだ」
桜智が花とともに置いていった錦袋である。
都が手にすると、ガチャガチャと音がする。
「一体何が入ってるんだ?」
「ふ、袋は上等なようだが」
いよいよ、チナミのフォローも苦しい。
意を決した都が袋を逆さにすると、畳には薄紅や薄青の小さな貝殻が広がった。
「うわっ、なんだこれ」
「落ち着け八雲、貝殻に色を塗ってあるだけだ」
「それ、おはじき?何だか楽しそうだね」
そこに割って入ってきた声がある。
「リンドウさん」
ゆきが名を呼ぶと、呼ばれたリンドウは笑みとともに半身をずらした。
「神子殿にお客だよ」
リンドウのさらに後ろから顔が覗く。
「ゆき、お返しを持ってきましたよ」
アーネストである。
「アーネスト。当日もお花もらったよ?」
「でも、あなたの世界では今日お返しするのが正式なのでしょう?」
ゆきの前にやってきた彼は、ウィンクすると小さな白木の箱を取り出した。
「つまらないものですが」
「本っ当、お前どこでそんな言葉覚えてくるの?」
「さあ、日本語は本当に奥が深いですね」
都の突っ込みもさらりとかわし、白木の箱から取り出したのは一脚のティーカップだった。
淡い花柄に飲み口が金で飾られている。
「あ、これ!」
「この前、領事館へ来たとき随分と気に入っていたようでしたから。差し上げます」
「ありがとう、アーネスト」
「いいえ、あなたの笑顔が見られるなら安いものですよ」
さすが英国紳士、照れがない。と、都が呆れ気味につぶやいた。
「そういえば、僕も君に渡さないとね」
今度は、一連のやり取りを見ていたリンドウが包みを取り出す。
中から出てきたのは、赤い漆塗りに蒔絵が施された文箱だ。
「はい、頼まれてた文箱とか筆とかいろいろ。鏡台も赤いみたいだし丁度よかったかな」
ゆきが蓋をあけると、中には一揃いの筆に硯、花弁を織り込んだ料紙が入っていた。
「すごい!ありがとうございます、リンドウさん。こんな立派なものでなくても良かったのに」
「そう言われても、あまり粗末なものをあげるわけにはいかないからね」
ゆきに許可を取って筆を手に取ったチナミが感嘆の声をあげた。相当良いものらしい。
「あ、そうだ。もうひとつ君に渡さないと」
思い出した、と、リンドウが一度廊下に引っ込み戻ってくる。
手には紫に染め抜かれた絹の風呂敷包みが収まっていた。
「なんか、また禍々しいのが来たぞ…」
「っ、良く見ろ八雲。徳川家の紋が入っている…」
都に同調しかけたチナミが目を見開いた。
「はいこれ、慶くんから」
包みの放つ格式からは考えられないほどの軽さで手渡された。
「小栗さんからですか?」
「うん。実は朝一には届いてたんだけど。渡すの遅くなってごめんね」
「いえ、そんな。気を使っていただいただけでも…」
驚いたふうにしているゆきと周囲を見て、リンドウが若干的外れな応えをする。
「意外と慶くん、そういう家内のことにもきっちりしているから」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
都がぼやく。
公儀の奉行であることは知っているものの、しかし渡されたのは葵の御紋付の包みである。
若干の息詰まる緊張の中、とかれた包みから現れたのは果たして、色とりどりの糸で飾られた美しい手鞠であった。
「何だ、これ」
「手鞠じゃないの?」
そんなことは分かっていると、都がリンドウを睨む。
「どうして、手鞠など…」
困惑するチナミを他所に、ゆきの手元の鞠をアーネストはまじまじと見ていた。
「これは、美しいですね。これほど隙無く何色もの糸を重ねて花を象っているのですね。素晴らしいです」
ほう、と息をつく。
「ね、ゆき。それの使い方を教えてください」
アーネストが好奇心いっぱいの様子でねだった。
「うーん、多分こうかな」
静かに手元から落としてつく。
畳の上だからか、控えめにトントンと音がする。
「でも、なんで小栗がこんなものを…」
「あ…」
都の呟きにゆきが小さく声をあげる。
「もしかしたら、私が遊べるものが無くて寂しいって言ったからかな」
時折、身体を休める為にと一日邸に籠められるのだが、如何せん寝てばかりなのも体力を奪う。
それで、起きて何かしたいのだけれども、皆忙しくて話し相手にはできないし、
この時代の字が読めないから本も読めない。
リンドウに頼んで、いくつか絵草紙を借りたが、そもそも邸に女性が居ることが想定されていなかったから、
大した数があるわけでもなく。
何か、江戸の遊び道具は無いかと、二人と話している時に尋ねたのだ。
リンドウは、文字を習えばと筆記用具を贈ると約束してくれた。
そして、小栗はしばし黙した後、考えておこう、と言ったのだった。
思えば、桜智のくれたおはじきも、そんな話をどこかで聞いていて選んでくれたのかもしれない。
「嬉しいな。みんなの気持ちがこんなに沢山…」
「そ、そうだな…」
若干、疑問を感じる点もあったが、喜ぶゆきを思って都は堪えた。
「それで、ゆき。誰を選ぶのですか?」
「え?」
唐突なアーネストの問いかけに、ゆきは首を傾げた。
「ゆきの世界では、バレンタインデーは意中の異性に告白して、
今日返ってくる品によって想いが遂げられるかどうか判断するのですよね」
「あ、アーネスト!」
「若干、曲解してるけど間違いでもないな」
「竹取物語のかぐや姫の伝統が、ゆきの世界にも残っているのですね」
「いや、サトウくん。それはちょっと違うんじゃない?」
口々に勝手なことを話しはじめる。
「ああ…」
「どうしたの、都」
「高杉か沖田、チナミが一番マシかもって思っちゃった自分が気持ち悪い」
「な、どういう意味だ!」
「僕も結構いい線だと思うけど」
「お前のは、お返し関係なく約束してたんだろうが」
「では、やはり私が一番かな」
「確かに一瞬そう思ったけど、周到過ぎて重いんだよ!」
都の的確過ぎる突っ込みに若干引きつつチナミが言う。
「ならば、やはり御奉行か小松殿…」
「あいつらは、モノが重過ぎる!」
「それでは、桜智さんは?」
完全に面白がってアーネストが振った。
「あいつのは、モノはともかく経緯が怖すぎるだろ」
特に、おはじきの一件。

でも、結局は。

「私は、全部嬉しかったです。みんな大好きですし」

都が頭を抱え、チナミは深い溜息をついた。
「さすが、ゆきですね」
アーネストが言うと、リンドウがおかしそうに笑った。
「折角なので、リンドウさんにもらったお道具でお礼状を書きますね」
何故だか、やる気満々のゆきが、チナミに書き方を教えてね、とお願いする。

困惑するチナミを他所に、皆少しばかりの苦笑とともに、その場にへたり込んだのであった。

後日、ゆきからの手紙の内容で一悶着あったのはまた別の話である。

ゆきが、当代将軍たる徳川慶喜に針の指南を受けていると聞いたのは、ある日の江戸城でのことだった。
「どうしてそんなことになってるの?」
「そりゃぁ、俺に聞かれても分からんぜ」
「そもそも、何で龍馬くんが知ってるの?ここに居るの?」
「ちょ、ちょっとお目付、質問は一回に一個にしてくれって」
妙な話を、何故か江戸城に出入りしている坂本龍馬から聞き、リンドウは何度か目を瞬いた。
(慶くんから針の指南?)
話が素っ頓狂にすぎて、さしものリンドウも頭がついていかない。
確かに、最近勝手に慶くんがゆきを呼び出しているのは知っている。
許しがたいと抗議してからは、一応リンドウの耳にもゆきの登城についての情報は入ってくるようになった。
しかし、何をしているかと思えば……。
何となく面白くない気持ちが募り、龍馬を廊下に置き去って向かうは将軍の執務室である。

***

文机に向かう慶喜の目の端には、先ほどから刺繍に励むゆきの姿が映っている。
こうして針を進める様を見るのは片手では利かないが相変わらず運びが拙い。
気にしなければ良いのだが、ゆきが度々針を指にさしては「あっ」と声をあげるものだから、
どうしても気になってしまうのだ。ため息を吐き、筆を置く。
「相変わらず、拙いものだな神子。少しは上手くなったのか」
あきれた様に言う慶喜に、ゆきが苦笑する。
「以前と比べたら大分針目は綺麗になったと思うんですけれど」
はにかんで首を傾げる様に、慶喜もつい微笑した。
「見せてみろ」
ゆきの肩越しに、その手にある角枠を覗き込む。
「ああ、なぜそこに針を刺す。こう糸を揃えて……」
器用に短い針と糸を操る当代将軍を見つめていると、廊下の方で大きな足音がした。
数秒も立たぬうちに襖が開かれる。
「御前失礼仕りますよ」
慇懃無礼に、執務室へ乗り込んで来たのは勿論リンドウである。
ゆきの背後にぴたりとくっついた慶喜の姿を確認するや、間に立って引き離す。
「ああっ、そんなにくっつかないでよ!何してるの?」
「えっと……」
ゆきがとっさに角枠を後ろ手に隠す。
「リンドウ、許し無く将軍の居室に乗り込むとはいい度胸だ……死罪にするぞ」
ゆきが、駄目と首を振る一方で、慶喜の恫喝にもリンドウはどこ吹く風である。
そもそも、ここに至るまでの経路で、彼を通した幕臣達も幕臣達なのだが。
ここで問答しても無駄であると悟り、慶喜は言葉を継いだ。
「見ての通りだ。神子が刺繍をしているのだが、拙くてな。やむを得ず指南しているまで」
「そこが疑問なんだけど。慶くん、刺繍なんて出来るの?」
「お前の懐から見えている巾着だが……」
「ああ、これ?ゆきが作ってくれたんだよ」
喜色満面のリンドウを睨みつけて慶喜が言う。
「それも、私の指南だ」
「ええっ!?」
おずおずと膝を進めると、ゆきが言った。
「以前、登城した時にたまたま教えて頂いて…。
慶喜さん、色々お上手なんです。お針も得意だけど、釣りも上手いんですって」
「慶くん……」
リンドウが幾らか気落ちした風に言った。
「君、将軍だよね?」
「間違いない」
「どうして?」
「分からん。何をやっても私は上手いぞ」
どうだ?とばかりに言ってのけたが、当のリンドウの反応が鈍い。少々気まずくて言い足す。
「まあ、刺繍は母上が得意とされていたのでな」
「だからと言ってもさ……」
複雑な顔で、リンドウは手元の巾着と慶喜の顔を見比べた。こうなると何とも興も削げる。
「おい、執務を終えたなら神子を連れて退出してよいぞ。大義であった」
言われなくても、と憎まれ口を叩くリンドウをチラと見たゆきが慶喜を見つめる。
「色々ありがとうございます。もっと上手になったら御礼に何か作りますね」

***

微笑みと喧噪を残して二人が去った居室で再びため息をつく。
龍神の神子には少なからず感心がある。
自身の命令にも関わらず、江戸に残ったのをこれ幸いにと城に呼び出して見れば、
然るべき時に向けてと針の練習をしているという。
誰に吹き込まれたやらと思い静観していれば拙くて見ていられない。思わず手を伸ばしたら今の有様である。
よく考えずとも大分道が逸れている――――――――
神子が嫁入りの為に苦心している針を手解きしてやり、他方では面倒な神子の想い人を導いてやる……。
これでは、まるで神子の母親のごときだと思うが、今更か。
神子に針を教え始めてから、ごくごくたまに手に取る角枠を眺めた。
刺繍などと思うが、意外と精神統一には良いものだ……と自分に言い聞かせてみる。
そして、刺繍もそうだが、ほとほと自分の器用さには嫌気がさす。
もっと不器用なら、率直に思いを口に出来ただろうか。
しかし、神子が江戸に居るうちは幾らでもやりようがある。
慶喜は、そう自身に言い聞かせて、とりあえず溜飲を下げることとした。
押しの強さでは天下一品なのだ。
まだまだ、勝負はこれからである。

真夜中の電話。
いつもなら、少し逡巡してかけるのを止めたりもするのだが、今日の所は選択の余地などなかった。
とにかく声が聞きたくて。
ほんの僅かでもいい。寝ぼけていたって・・・起こしてしまうのは可哀想だけれど、それでも。

『・・・はい』
「ゆき?僕だけど」
『はい、いま帰りですか?』
「そう。やっと玄関まで辿りついたところ」
『そうですか・・・、遅くまでお仕事お疲れさまです』

携帯越しに聞こえる声は、やっぱり少し寝ぼけていて。
それでも、電話に気付いて出てくれたのがちょっと嬉しい。
「ごめんね、寝てた?」
『ううん・・・、電話待ってましたから。ちょっと居眠りしちゃったけれど』
「そうか。遅くなってごめん」
『そんなことないです。電話くれて嬉しいです』

返される言葉のすべてが可愛くて、愛しくてたまらない気持ちになる。
家に帰って部屋に君が居てくれたら、どんなにか心癒されるだろう。

「ゆきに会いたい」
『ん・・・、リンドウさん?』
「会いたい、ゆき。君に会いたい」
『私も・・・です。でも、今日はもう遅いから・・・』
「うん。でも会いたい。ゆき、会って抱きしめたい。口付けてそのまま眠りたい」

彼女が寝ぼけた様子なのをいいことに、普段なら言わないような事まで口にする。
それでも、敏い神子殿は違和を感じたのだろう。
『リンドウさん・・・、どうしました?』
「んー。少し、疲れているかも」
『困りましたね。辛いですか?』
「うん。でも君の声を聞いたらちょっと元気になった」
『そうですか。良かった』
「うん。ゆきのおかげかな」
『じゃあ、もっとお話したら元気になりますか?』
可愛い提案に思わず笑みがこぼれる。
「今日の所は大丈夫だよ。明日、仕事早く終わらせる。君は?」
『・・・私も、大丈夫です。学校が終わったら何にも』
「じゃあ、迎えに行く。いい?」
『はい』
楽しみだな・・・
『楽しみにしてます。待ってますから』
先に言われてしまった。
「じゃあ、今日はおやすみ。」
『はい』
「ゆき、愛してるよ」
『私も、愛してますよ・・・』

そのまま、眠りの世界に吸い込まれて行きそうな声。
(おやすみ、良い夢を)

そっと告げて電話を切った。

不意の笑顔が

今日もまた、池のほとりに佇む君を見た。
その表情はどこか虚ろで、しかし、どこか遠くを見据える様に視線は静かで平かだった。
さざ波さえ立たせず池に手のひらを沈め、一点を見つめる。
声を掛ける事も憚られ、息を詰める様にして、じっと見守っていた時だった。

ふとした瞬間、さやかな風が吹き抜けて髪をさらうと、それに逆らう様に君がこちらに振り向いた。
瞳が僕を捉える。

薄く開かれていた唇が戦慄いて結ばれると、口の端を緩く持ち上げる。
わずかに覗く、小さな前歯の白さが目に痛いようで。
不思議な色香を漂わせた、儚くて消えそうな微笑み。

散り、舞い上がる命の花の光を背に、白肌は境界を無くしてほの白く輝く。
まるで、羽衣をまとった天人のようだった。
緩慢な動作で伸ばされる腕は届かず、そのまま下ろされる。
その、不意の笑みに君を失うような心地がして思わず踏み出し手を伸ばす。

触れてはいけない、と思いながら。

 

無謀と知っても

相反する心が同居する。
叶うだろうか、叶わないだろうか。

運命が変えようの無い絶対のものだと言っておきながら、心は抜け道を探している。
心は、覆される事を期待している。

想いは積もり続ける。夢で垣間みたあの日から。
告げてもいいだろうか、告げてはいけないだろうか。

日に日に、大きくなる声に耳を塞ぎたくなる。
大きくなる想いに痛む心臓をかきむしりたくなる。

君が、好きだった。
君が好きだ。

逆らう事は無謀と知りながら耳を塞ぐ。
君を失うのも運命なら、君に恋するのも運命だから。

真っ直ぐな瞳が

真っ直ぐと向けられた瞳に貫かれる。
矢のような鋭い視線ではないが、意思の強い眼差し。

凛としたその瞳が、少女のすべてを表していた。

頼りなげに肩を震わせるのに、いつも瞳だけは毅然とした色を保っていた。

『私は、神子をやめません』

何度、打ちのめされても身の内の炎は消えず、その瞳をますます輝かせる。

そして今。
いつしか魅入られたその瞳が、僕だけを見つめている。

「好きです」

背筋を冷たい雷が通り抜ける。
まるで、青白い稲光に打たれたような言い知れぬ愉悦と快感を走らせる。

「リンドウさんが好き」

その輝きで、見つめたものを呑み込むような瞳から視線をそらす事も出来ず、ただ喉を鳴らす。
言葉を返す代わりに、目の前で色づく唇を塞いだ。

 

誰より君が

何で、こんな事を考えてしまったんだろう。

それは多分、体調を崩して床に臥せっているからだ。
君はいない。

そりゃそうだ。
だって、あの子は学校に行っている。
僕の知らない、彼女だけの世界に。

ここまで考えて、溜息をつく。
我ながら嫌になる。
何てみっともないんだろう。

君が居なければ、僕はこの世界でひとりきり。
それよりも、何よりも、僕の世界は君が中心で、君が全てだ。

ただ、嫌なのは何でこんな時に、こんな事を考えてしまったのかと言うこと。

誰より君が知っている通り、ぼくは、しょうもない男で、一人じゃ生きてる心地がしない。

早く、早く帰ってきて。
側にきて知らせて欲しい。

僕は、ひとりじゃないことを。

(お題提供:「確かに恋だった」http://have-a.chew.jp/)