不意の笑顔が

今日もまた、池のほとりに佇む君を見た。
その表情はどこか虚ろで、しかし、どこか遠くを見据える様に視線は静かで平かだった。
さざ波さえ立たせず池に手のひらを沈め、一点を見つめる。
声を掛ける事も憚られ、息を詰める様にして、じっと見守っていた時だった。

ふとした瞬間、さやかな風が吹き抜けて髪をさらうと、それに逆らう様に君がこちらに振り向いた。
瞳が僕を捉える。

薄く開かれていた唇が戦慄いて結ばれると、口の端を緩く持ち上げる。
わずかに覗く、小さな前歯の白さが目に痛いようで。
不思議な色香を漂わせた、儚くて消えそうな微笑み。

散り、舞い上がる命の花の光を背に、白肌は境界を無くしてほの白く輝く。
まるで、羽衣をまとった天人のようだった。
緩慢な動作で伸ばされる腕は届かず、そのまま下ろされる。
その、不意の笑みに君を失うような心地がして思わず踏み出し手を伸ばす。

触れてはいけない、と思いながら。

 

無謀と知っても

相反する心が同居する。
叶うだろうか、叶わないだろうか。

運命が変えようの無い絶対のものだと言っておきながら、心は抜け道を探している。
心は、覆される事を期待している。

想いは積もり続ける。夢で垣間みたあの日から。
告げてもいいだろうか、告げてはいけないだろうか。

日に日に、大きくなる声に耳を塞ぎたくなる。
大きくなる想いに痛む心臓をかきむしりたくなる。

君が、好きだった。
君が好きだ。

逆らう事は無謀と知りながら耳を塞ぐ。
君を失うのも運命なら、君に恋するのも運命だから。

真っ直ぐな瞳が

真っ直ぐと向けられた瞳に貫かれる。
矢のような鋭い視線ではないが、意思の強い眼差し。

凛としたその瞳が、少女のすべてを表していた。

頼りなげに肩を震わせるのに、いつも瞳だけは毅然とした色を保っていた。

『私は、神子をやめません』

何度、打ちのめされても身の内の炎は消えず、その瞳をますます輝かせる。

そして今。
いつしか魅入られたその瞳が、僕だけを見つめている。

「好きです」

背筋を冷たい雷が通り抜ける。
まるで、青白い稲光に打たれたような言い知れぬ愉悦と快感を走らせる。

「リンドウさんが好き」

その輝きで、見つめたものを呑み込むような瞳から視線をそらす事も出来ず、ただ喉を鳴らす。
言葉を返す代わりに、目の前で色づく唇を塞いだ。

 

誰より君が

何で、こんな事を考えてしまったんだろう。

それは多分、体調を崩して床に臥せっているからだ。
君はいない。

そりゃそうだ。
だって、あの子は学校に行っている。
僕の知らない、彼女だけの世界に。

ここまで考えて、溜息をつく。
我ながら嫌になる。
何てみっともないんだろう。

君が居なければ、僕はこの世界でひとりきり。
それよりも、何よりも、僕の世界は君が中心で、君が全てだ。

ただ、嫌なのは何でこんな時に、こんな事を考えてしまったのかと言うこと。

誰より君が知っている通り、ぼくは、しょうもない男で、一人じゃ生きてる心地がしない。

早く、早く帰ってきて。
側にきて知らせて欲しい。

僕は、ひとりじゃないことを。

(お題提供:「確かに恋だった」http://have-a.chew.jp/)

「どうしたの、ゆき?」

ある夜のこと。リンドウはゆきと話をしていた。
現代に戻ってからは、もっぱら携帯電話での会話で、ゆきが好きなときに使うことを許されている。
「夜遅くにごめんなさい。」
「いいよ。どうしたの?」
「…ちょっと、リンドウさんの声が聞きたくて。」
可愛らしい答に頬が緩むのを感じながら、リンドウは、大人の余裕を総動員して冷静を保つ。
「君、眠れないんでしょ。困った子だ。」
子ども扱いしないでください、とゆきが膨れているのは、電話越しでも容易に想像できた。
何か悩みでもあるのだろう。意地悪は早々に切り上げることにする。
「何かあった?いいよ、聞いてあげる。」
ポツリ、ポツリとゆきが話すのを真剣に聞きながら、携帯電話を肩に挟み、両手は取り出したお札を器用に折り曲げる。
ゆきが話終わるころ、
「さあ、できた。」
「きゃっ!」
リンドウが、お札から手を離すと同時に、電話の向こうから小さな悲鳴が聞こえた。
しかし、次の瞬間、
「わぁ、きれい…。」
「びっくりした?」
頭上には、色とりどりの花の蕾が開いては花弁を散らし、再び蕾になりを繰り返す。
同じものが、ゆきの頭上でも披露されているはずだ。
「もう…、急になんですかリンドウさん。私のお話聞いてましたか?」
ゆきが拗ねてみせる。
「聞いていたよ。大変だったね、ゆき。君は良くやっているよ。」
「…。」
「だからね、これはご褒美。少しは気が紛れた?」
おそらく、ちょっと悔しそうに頬を染めているだろう、ゆきを想像してリンドウは笑った。
「リンドウさんの意地悪。急に優しくしたりするし…。」
「心外だな。僕はいつもゆきに優しいでしょ。それを言うなら君こそ。」
「え?」
「困ったことがあったら、すぐに僕に言いなよ。遠慮する仲じゃないんだから。」
「でも…。」
「でも、じゃないの。大体、眠れないなら呼んでよ。君が眠るまで一緒に居てあげるから。」
「そ、そんなこと!」
声を荒げるゆきに、にんまりしながら、嬉々としてリンドウは続ける。
「つれないな。眠れぬ夜は僕を傍においてよ。」
「冗談ですよね?」
「じゃないよ。本気も本気。」
「~~っ!!」
湯気が出そうになる程真っ赤になっているだろう。式神なんか使わなくても、手に取るように君のことは分かるよ。
「もう、バカ。」
「君の恋人と星の一族の名にかけて誓うよ、ゆき。僕だけは、ずっと君の味方だから。どんなことがあっても、君を見限ったり、離したりしない。」
だからね、とリンドウは言葉を一度切った。
「安心して眠りなよ、ゆき。君が眠るまで花を咲かせるよ。」
「…ありがとう。リンドウさん。」
「いつぞやみたく、僕も一緒に寝ちゃう前に君も早く寝て。明日は、元気な君を見せて。」
ゆきが、ふふっと嬉しそうに笑うと言った。
「いつぞやみたいなのも、たまにはしてみたいかも…。今度は仲良くお花見しましょうね。」
「…おやすみ、ゆき。」

今度こそ電話を切って、ひと知れずリンドウは赤面したまま、しばし余韻に浸った。
本当に、ゆきと居ると最後まで余裕でいられたことがない。
厄介なお姫さまである。
だからこそ、願う。

眠れぬ夜だけじゃなくて、いついかなるときも、君の傍にいさせて。

江戸城、松の廊下近くの一室にて。

「はい、やり直し。元の位置に戻って」
「はぁ」
「返事」
「は、はい!」
指摘を受けて、慌てて正装した武士が幾らか離れた座に戻っていった。
その姿を見て連座する年若い武士が小さく笑いを漏らす。
まるで緊張感の無い、近所の寺子屋での風景のようだった。
教官役が、面々をチラリと見てから一つ咳払いして告げる。
「大切な事を申し忘れておりましたが、この場は連帯責任です。御承知おきを」
即座に笑いがどよめきに変わる。
軽い溜息とともに続けた。
「当然でしょう。だって、仮に個人は素晴らしくとも、貴方達は”今年”の括りになるし、貴方達の背後にあるものをお忘れでは無いですよね」
ここまで言われれば、愚鈍な大名の子息とて意味を理解する。
「分かったなら、もう一度。注意深く廊下を歩いて下さい。このままだと、口上までたどり着かないよ」
教官役が深く溜息をついて姿勢を正した。それを見て、先頭の者が立ち上がる。
先は長そうだ。

今日は、ここ江戸城で年に一度の大名嫡子御披露目に向けた事前練習が執り行われていた。
こういった儀式関連には、事前練習が付きものであるが、幕府においてそれを担当するのは、何故か御目付という役に就く幕臣達の役目であった。
そもそも、御目付役の役目は各々重要ではあるものの、多岐に渡り過ぎて一見しただけでは繋がりの見出せない雑務の山のようだ。
例えば、こういった式典に挑むにあたっての礼儀作法の指南役であり、奉行所に集まる目安箱の管理者であり、奉行所の裁き立会人でもある。
果ては、江戸城の閉門も御目付役が指示し、城内の見廻りもする。
有能でなければ勤まらないとは、非常に前向きな言い方で、有る程度は何でもこなせる器用さが試される職だろう。
幸い、様々な雑務のうち幾つかは当番制だ。
しかし、出来ることなら廻ってきて欲しくないのが、まさにこの御披露目の事前練習係であった。

廊下を歩くことすら侭ならない大名の子息達を見て、リンドウは何度目かの溜息を吐く。
『摂関家出身の目付役がいる』
『かの目付役に指導賜れば、いかな愚鈍な子弟でも、美しい立ち姿で歩けるようになる』
『口上は、歌詠むが如く流暢になる』
『一端の公達の如く変化する』

いつの間にか広まった噂は、尾ひれ腹ひれがつき過ぎて、もはや、元がどんな話だったか分からない。
そして、それを真に受けてなのか、なんなのか。藁をも縋りたい気持ちの大名達によって、選りすぐりの面々が噂の教官…摂関家出身の目付役にして今最も将軍に近しい男…リンドウの元に送られてくるのだった。
正直なところ、いくらリンドウが目付役にして陰陽師だからと言って、術で人間を作り替えることが出来るわけではない。
単に、根気良く的確に、少しは見られるように崩れたハリボテを立て直すのが、上手だっただけだ。
しかし、ハリボテでも何でもいいから作って欲しい大名は意外と多いらしい。噂が噂を呼ぶうちに、おかげで数ある儀式の中で最も面倒な御披露目の事前準備係は、ほぼリンドウで担当が固定されてしまったのである。

さて、場は松の廊下近くの一室に戻る。
リンドウは頭を抱えていた。
子息達が緊張しているのは分かるのだ。
分かるけれど、何故姿勢を正したまま立ち上がることが出来ないのか。
そして、真っ直ぐに歩くことが出来ないのか。
何より、コツを教えたのに何故覚えないのか。
全国選りすぐり…つまり、諸藩お手上げの坊ちゃん達は中々の難物であった。
ようやく、口上にたどり着いたのも束の間、今度は声が出ない。
ただ、出身国と家名、名前を告げるだけなのに。
(頭痛い…)

「………ドウ!」
こめかみを押さえた所で、よく通る声が名を呼んだ。
まだ声は遠いが間違いない。
「リンドウ!居るではないか。返事をせよ」
再び聞こえた声は廊下側からで、目をやると、当代将軍たる慶喜が少し不機嫌な調子で文句を言ってから、堂々たる足取りで廊下を渡る所だった。
居並ぶ大名子息達を一顧だにせず、突っ切る。裁く袴の乱れすら無い。

思わず惚れ惚れするような、威風堂々とした完璧な立ち姿であった。
これほどの人を前にしたら、あの四賢侯すら頭を下げるのは当然に思える。

なのに。
リンドウの前までやってきて仁王立ちする人に、子息達は口をぽかんと開けたまま固まっていた。
ある意味、これも正しい反応かもしれない。この状況は想定外かつあまりに非常識だ。
「恐れながら、”上様”。今がどのような状況かお判りですか」
さり気なく、子息達に助け舟を出すと、さすがに眼前の人物が誰か理解して全員平伏した。
問いかけられた将軍…慶喜は、恐ろしく切れる頭で逡巡した後、彼にとっては瑣末ごとだろう儀式を思い出したらしい。
「ああ、御披露目の準備か。何の遊戯かと思ったぞ」
「彼らなりには真面目にやってるんだと思いますよ」
「立ち居振る舞いで決まる範疇など、高が知れているだろうに。くだらんな」
「悪気ないのは分かりますけど、それを貴方が言っちゃったら終わりだから」
やめてくれませんかと牽制しつつ、用向きを促す。
「いや、後ほどでよい。その役目、途中で捨て置けるものではなかろう」
「貴方が許可を下されば良いんですけど」
半分本気で、役目から解放されることを期待して言ってみる。すると斜め上の返事がきた。
「ならば、私が手伝ってやろうか」
「いーや、勘弁して下さい。そんなややこしい事になるくらいなら、僕一人で結構」
「さようか。残念だな」
ニヤニヤと漏れる笑みは確信犯だ。
「はいはい。遊んでないで早く執務にお戻り下さい。終わったら伺います」
「そうしてくれ。さて、私をあまり待たせるなよ」
頭を下げたままの子息達を睨め付けると、慶喜は愉快そうに去っていった。
リンドウは、軽く嘆息してから逡巡する。
もう、彼らは御披露目で得るべきものの半分を手に入れてしまった。
(それなら、もうこれでいいんじゃないの?)
良くも悪くも、当代将軍の目通りを得てしまった。しかも、それなりの関心を持って。
彼らが今日の出来事を意識して用いれば、すぐに慶喜なら気付くだろう。
まあ、そんなこと思いも付きそうにない面子ではあるんだけれどね…。

本番を前にして、普段は交わることなど無い大名の子息達が顔を突き合わせて確認したのは、まずこの一件であった。
噂には聞いていたが、やはり凄い。
「まさか、上様に目通り出来るとは思いませんでした」
「偶然とは言え、さすが二条殿。それにあの慇懃無礼な立ち居振る舞いはどういうことか」
「それほどまでに、上様とは近しい間柄なのでしょう」
リンドウに教われば大丈夫。
それは、確かな教養に基づく指導もあるが、専ら将軍の片腕としての圧倒的な立ち位置にもあった。
父親の命でやってきただけの坊ちゃん達も、目の当たりにすれば俄然勢いづく。
よし、俺たちは大丈夫だ。
何と言っても、あの御目付殿の指導を受けたのだから。

思い込み…と言うのは、あながち馬鹿に出来ない。
かくして、この幕府において最強の御守りを得た(と思っている)教え子達は、なかなかに堂々とした立ち居振る舞いで、本番を無事に切り抜けた。
効力が永久に続くはずも無いのだけれど、こうしてまた、リンドウのハリボテ伝説が築き上げられたのである。

「このことは、秘めねばなりません」

京に移り、初めに告げられたのは、この運命の選択が重大なことなのだということ。

「御身は一族の名にかけて御守りしましょう」

しかし、かの人を護るのも重大な使命なのだと、静かに諭す張りつめた声が示していた。

「兄上は、ああ言ったけれど、君の身柄を確保した意味を間違えないでね」

リンドウの兄であり、星の一族でもある二条家当主の前から退出して一番、言われたのは己の身のことだった。
いつになく厳しい表情で語るリンドウの横顔は、整っているだけに一層怜悧で冷たく見える。
「はい、気を付けます」
「気を付けるだけじゃ足りない。外出はもってのほか、邸内を移動するのも、なるだけ事前に僕に居場所を伝えて。言っておくけど、君自ら告げにくるのは無しだよ。 その為に、幾人も側用人を付けてるんだから」
リンドウが釘をさす。
「慣れなくても、人を使うことを覚えて。君が選んだのは、そういう運命だ」
「…はい」
神妙に返事をすれば、さすがに八つ当たりが過ぎたと思ったのだろう。幾分か語調を弱めてリンドウが継ぐ。
「ほんと、馬鹿正直に謹慎なんて決めるから、こんなことになってるんだ。まったく、何ひとつ持たずに行ってしまうんだから酷いよ」
その言葉には、リンドウ自身のことも含まれているのだろう。
「待つ身になってみたらいいんだ、あの人は」

“あの人”は、時代の激流を潜り抜けた末に、職を辞して故郷で謹慎生活を送っている。
出来るだけ静かに密やかに。
息を潜めながらの生活に安寧は不要とばかり、あらゆるものを置いて行ってしまった。

謹慎があけたら。
ようやく、かつて夢見た安らかな日々が待っていると。だから待っていて欲しいと、あの人はゆきに告げた。
その時には、すでに彼の傍にある事を決めていたから、ただ、ただ、その言葉を信じてうなづくしかなかったのだ。

やがて、江戸幕府は完全に失われ、新たな政府が立つ段になって、ゆきは、リンドウとともに京へ移ったのだった。
この世界で、ゆきに身寄りはなく、寄る辺となる人も傍に居ない今にあっては、頼りにできるのは星の一族であるリンドウとその実家だけであった。

そして今に至る。

「神子様、ご機嫌はいかが?」
この日は、午後からリンドウの姉姫が訪ねてきていた。
すでに宮家に嫁いでおり、親王妃という身の上ながら、身軽にも時折こうして、ゆきを訪ねてくる。
リンドウ曰く、星の一族の甲斐性と言うものらしい。
「慶喜さまからは、御文が届いたりはしないのですか?」
畳敷きの部屋に置かれたテーブルで紅茶を前にリンドウの姉姫が問いかける。
「謹慎の身ですから。まして、私宛には御文は来ません。時折、二条様宛に側近の方から近況が届くこともあるそうなのですが」
「そう…。それは御心配ね」
気の毒そうに言って紅茶をふくむ。
「水戸は寒いそうですから…、風邪を引いてないかとか。ひとりで寂しい思いはしていないかとか…」
切々と語るゆきの横で噴き出すような声がした。
「ふふっ…慶くんのこと、そんな心配の仕方しているひと初めて見たよ」
「これ、斉基殿。失礼ですよ」
「すみません、姉上」
やんごとない身分の姉と、身辺の危うい神子の茶会とあって、陰陽師でもあるリンドウが側近くに侍っているのだった。
「ごめんなさいね、神子様」
「気になさらないで下さい。リンドウさんの言うとおりですから」
私は、慶喜さんのこと、何にも知らないに等しいですから…。
自分の方が余程寂しげに、ゆきが言う。
「大丈夫だよ。謹慎と言ったって慶くんの周りには沢山の近侍やら何やら居るわけだし」
「これだから、殿方と言うのは身勝手なのですよ。神子様のお心遣いが、そういった事柄を仰られたのではない事すら分からないのだから」
慰めを口にしたところを頭から否定されて、リンドウがヘソを曲げて反論する。
「それが理と言うものなのですよ、姉上」
「そうだわ。御文は無理でも何か神子様を偲ばせるものをお送りしてはいかがかしら」
しかし、リンドウの言葉など何処吹く風と言わんばかりに、姉姫…親王妃が続ける。
「香りなどはいかがかしら。調べられて困るものでは無いでしょう」
「でも、形は家人同士がやりとりしている文に、いきなり女の、しかも安くは無い香りがしたら疑って下さいと言わんばかりでしょう」
「もう、貴方は黙っておおき。どうかしら兄上。何か神子様のために出来ることはないかしら」
親王妃は、末の弟を黙らせると、それまで、同席はしていたが沈黙していた長兄…二条殿に話を振る。
「そうだね。何か互いの無事を直に伝える術があれば、心の支えにはなるのだろうが…」
「慶くん、結局式神も持たずに行っちゃったからなぁ」
「斉基、そういうことではないのだよ」
微笑んだまま窘める。
どうも、末弟には情緒と言うものが欠けているらしいと、親王妃が溜息をついて、再びリンドウが不貞腐れた。
変わらぬ姉弟の様子に苦笑しつつ二条殿が続ける。
「やはり、物だとかいらぬ勘繰りを誘うものは避けなければならないね。何のために公が何ひとつ持たずに行かれたかを、我々はよくよく肝に命ぜねばならないよ」
再び、場を沈黙が支配する。各々、目の前の茶器を手に紅茶をすする。
「そうだね…」
ゆっくりと丁寧に茶器を皿に戻すと、二条殿が言った。
「我々は星の一族で、貴女は神子なのだから、龍神様にお願いしてみると言うのはいかがかな」
「白龍にですか?」
「そう」
「まあ、兄上。そのような方法がありますの」
「どのようにするかは、分からないのだけれどね」
ここで一斉にリンドウへと視線が集まる。
「こんな時ばっかり…。僕も流石に分からないよ。そもそも白龍がそんな私的な願い事なんて聞いてくれるんですか」
当のゆきは、落ち着かない様子でリンドウに視線をやる。
二条殿は、再び紅茶を口にしたあと、気負う様子もなく告げた。
「神子の為に何とかしてやりたいという思いは、白龍も同じでしょう。門前払いは無いよ」
その気持ちだけは、我々にも痛いほど分かるからね。
この二条殿の一言で、話題は幕された。

記憶は、江戸で八葉たちと共に奔走していた時に戻る。
あの日、慶喜…小栗が訪ねて来ていたのをゆきが知ったのは偶然だった。
夜半過ぎて、日課のように庭へ出たあと、自室に戻る途中で灯りが漏れる室を見た。

確か、あの室はリンドウの自室で、まだ起きているのだろうかと立ち寄った。
灯りの漏れる襖戸を少し開けて中を伺うと文机に倒れこむようにしている姿が見えた。
「リンドウさん!?」
慌てて立ち入れば、それは室の主ではない。
「えっ…」
名を口にしようとしたところで、畳についた手を掴まれた。
思わず悲鳴をあげそうになる。
「静かに」
こくこくと頷いて肯定の意を示す。手を掴んだまま見上げてきた目線は底冷えのする鋭さだった。
ようやく手を離され、眼前には姿勢を正した小栗忠慶がいる。
「小栗さんがいらっしゃるとは思わなくて…」
「私で無くとも、このような振る舞いは控えた方が良い」
「はい」
「夜半に女子に室を訪ねて来られるとは思わなかった」
無作法に怒っているかと思いきや、言った小栗の口の端は上がっている。
「女子があなたの室を訪ねてくるのは珍しくも無いでしょう?」
ふと、襖戸を背にしたゆきの上から声が降ってくる。
「リンドウさん」
今度こそ、室の主である。
「確かに。龍神の神子が訪ねてきたのは初めてだがな」
「ひとの室で、下手なこと起こさないでくださいよ」
軽口を叩き合う二人を横目に、ゆきは再び小栗を見上げた。
「小栗さん、顔が赤いです」
「ちょっとちょっと神子殿、あんまり女子がそういう話題を…」
「違うんです、リンドウさん」
勘違いしている風なのを、一度言葉を切って言い直す。
「さっき小栗さん、机に倒れこんでいて…」
「神子…」
再び、有無を言わせぬ断固とした強い声が名を呼んだ。
「そろそろ、神子殿も寝なさい。明日も怨霊の浄化に行くんでしょう?」
「あ、はい」
「それじゃ、おやすみ神子殿」
話を打ち切るように、リンドウが退室を促す。
「あの、おやすみなさいリンドウさん。…小栗さん」
「ああ。よく休むように」

そこで記憶は途切れた。あのとき、確かにあの人は笑っていた。
でも、少しだけ苦しそうで、紅潮した頬が体の不調を知らせていた。

あの時から、時折リンドウなどが茶化す様に言うけれど、彼は決して人外の生きものなどではなく、自分と同じただのひと。
年若い、ただの青年であるのだと思う様になった。
のしかかる重圧や、周囲の有象無象の期待など、ゆきにかかるそれの比ではないのだろうことは分かる。
そして、彼がそうなるべくして生きてきた人物だということも。
それでも、神子としての自分に押し潰されそうになりながら抗う感覚は、きっとあの人の感じているものと似ているのだろうと、心のうちで確信していた。
周囲に、決して弱みを見せない様に歯を食いしばる様は、何とも言えず哀れを誘った。
天下の一橋公にそんな感慨を持つなど常人ならば及びもつかず、そして酷く無礼なことなのだろう。
ただ、この時の邂逅がゆきの中の慶喜を決めた。

(白龍・・・)
自室で、静かに心の中で己を支配する龍に問いかける。
(白龍、まだ私の声、聴こえる?)
応えはない。
だが、遠く耳の奥で鈴の音が聴こえたような気がした。
(白龍、あの人は今どうしているかしら。辛い思いはしてないかしら・・・)
やはり、応えはない。
(私は無事で、ここで待っています。もう一度会えると信じて・・・)
室を照らす細い灯りは揺らぐことも無く、ただ、静寂に包まれる。
(もう一度・・・会いたいです。慶喜さん、逢いたい・・・)

昨晩から酷く冷えて、朝は晴れていたが身が凍る寒さだった。
蟄居の身の上ゆえに、勝手知ったる土地とて大々的に外を出歩く訳にも行かず、慶喜は静かに書を読んで過ごすことをほとんどの日課としていた。
なるだけ、目立たず、思想は持ち合わせず。
新政府の目につかぬよう、ただ日々をやり過ごすのが今一番の果たさねばならない使命であった。
土地特有のからっ風が身にしみる。
少し前から、風邪の兆候があり体調が万全とは言い難かったからだろうか。
元より、さして深くもない眠りがますます浅くなって、蟄居の身には少々堪えた。
いっそ、一日眠って過ごそうかとも思われたが、元よりそういった日々が遠い身の上ゆえにそれも憚られた。
昨夜などついに夢など見て、これがまた実に具合の悪い夢であった。
こんな調子の主を案じて、近侍らが女を宛てがおうと画策していたようだが「謹慎中」だとして釘を刺した。
かつての自身を思えば体のいい言い訳に使っただけなのだが、言い得て妙である。

見たのは、女の夢だった。
それも、慶喜が、かつて江戸で二条の末子と幕臣に身をやつして動き回っていた頃に出会った娘だ。
『龍神の神子』と呼ばれる娘は、あの頃、京と江戸市中に蔓延していた怨霊を浄化する力を持つという、世にも不思議な女だった。
はじめは、二条の末子・・・目付として幕府に仕えていた従兄の言葉を容れて利用するだけのはずだった。
それが、いつしか言葉を交わす様になり、そのうち、時折だが、胸の内を打ち明けるほどに心許した。

貶めず、持ち上げず。

何の下心もなく、ただ柔く受け止めてくれる空間が気持ちよかった。
闇雲に、分からずそうしているのではなくて、あの娘も同じ様に運命の鎖に縛られて、もがく苦しみを知っている。
そうでありながら、ただのひとのように接してくるのだ。

庭に面した縁側は、陽があたり少し暖かい。ここに彼女が居て、柔らかな膝を引き寄せて眠ることができたらどれほど幸せだろう。
想像のうちで、かの娘を思い浮かべるうちに、少々まどろんで来た。
慶喜が、庭に向かって手を差し伸べるとひやりとしたものが指先に触れる。
見上げると、ちらちらと天から花弁のような雪のかけらが舞い落ちてきていた。
「風花・・・か」
少々めずらしい天からの贈り物に目を細める。
手のひらに降り積もる風花は繊細で、その熱にすぐに溶けてしまった。
記憶の中から引っ張り出した龍神の神子は、その姿も心根も真っ白で、雪景色に溶けてしまいそうだった。
思えば、彼女も冬に現れた奇跡だった。
この風花のように、消えるか消えないか。
儚げな風情ながら、懸命に日々を過ごしていた娘は、今この掌中にある。
掌中にあるとは言っても、手ずから守ることも出来ず、今は従兄であり神子を守る一族に預けたままで。

「早く、迎えに来いという便りか・・・」

もとは、この世の人間では無いと言う。
それを引き止めて手元に置こうとしたのは、この自分だ。
愛想を尽かして雪の様に溶けて消えてしまっても、今の自分には文句ひとつ言える立場にない。
まして、彼女は一橋慶喜を将軍にまつり上げた立役者の一人である。只人ではない力を持ち、民衆の支持も厚い。
そればかりか、慶喜が神子に対して浅からぬ関心を持っていたことは、幕臣らの間で公然の秘密となっていた。
同様に、今は新政府側に居る連中も、神子に恩義を感じるもの、利用しようと画策するもの、その神聖に心酔するもの…数多居た。
いかようにも使える娘の身の回りは危険なことばかりである。

その点は、従兄の一族に預けることが出来たのは良かった。
そうそう踏み荒らすことは出来ない高貴な家柄だ。それに、神子を奉るのが使命であり、命に変えてもそれは守ってくれるだろう。

「ゆき…」

口に出してしまえば辛くなると分かっていたのに、一度零れ落ちた言葉は戻らない。
己の声とは思えないほど、頭の中で反響する。

「神子、すまない…。何もしてやれず苦労をかける」

手のひらに、ひらり、ひらりと舞い落ちる風花に語りかける。

「一番苦しい時に、傍に居てやることも叶わん。まず自分の身を浄めることが第一の男だ」

それは、慶喜の生まれや立場がそうさせている部分が大きいのだけれども、今だけは偽らず話してしまいたかった。

「いまや、将軍では無く、武士でもなく、平民でもない。俺の手元には何も残らない。それでも…」

脳裏には、初めて触れた手の冷たさが蘇る。
声を上げようとした神子の掌は冷たかった。

そう、冷たかったのだ。

少し驚いて見上げると不安で澄んだ瞳が揺れていた。
寸でのところで自戒し、声を絞って威しつけた。
余分なことは言ってくれるなと。

甘やかされたなら、縋ってしまいたくなるではないか。

彼女の陽の気は強く、願ったならば全てをひっくり返してしまったかもしれない。
けれども、慶喜はそれを希わなかった。

「風花とは、妙な天気だと思うたが、そなたが寄越したか。神子」

天を見上げれば、快晴の空だ。

襖の向こうから、近侍のものが呼び掛けるくぐもった声がした。
それを合図に、慶喜は手のひらの雪の花片を握り締めた。

その夜、ゆきは夢を見た。
邸の縁側で、黙々と書を読む慶喜の姿だった。
随分と長いことそこに居るようで、幾つかの湯呑みが置きっぱなしになっている。
お茶を淹れなくてはと思った。
江戸に居る時から、たまに茶汲みなどしていたが、慶喜…当時は小栗だったが、集中すると他が疎かになるらしい。熱い茶を無造作に口に運んで、火傷しそうになっては眉を顰める。
きちんと、受け取る時には礼を言う律儀さなのに、しばらくすると受け取った茶のことは忘れてしまうようなのだ。
リンドウなどは、良くしたもので顔も上げないくせに、そこに置いてなどと指図する。
茶を飲む時は姿勢正しく、味や温度に注文をつけるくらいだ。
そのくらい、二人は育ちも何もかも違う。
つい最近までは、当たり前のように見ていた光景が懐かしく感じる。ゆきは、夢の中で微笑んだ。
慶喜には、ぬるめのお茶を。
忘れないようにしなければ。

次の場面では、慶喜がなぜか手のひらを見つめていた。
唇が微かに動く。

ゆき……
ゆき、それでも…

名を呼ばれた気がして、飛び起きた。しかし、まだ夜明け前で室は暗い。

「白龍…、貴方が見せてくれたの?」
天に居るだろう、かつての守護神に呼び掛ける。
「ありがとう…」
そっと思い出とともに胸にしまう。
久しぶりにかの人の声で呼ばれた己の名前は、胸に染み渡り、ゆきの心を慰めた。

翌朝、再び二条殿の前に呼び出されたゆきは、どこか浮き足立った様子のリンドウとともに御前に座した。
「他でもない、神子殿。報せが参りましたよ」

間も無く、慶喜の謹慎が解かれるだろうとの報に、薄く口を開いたままで表情が固まる。

「神子殿?」

横から問いかけるリンドウの声で、ゆきの中の全ては崩壊した。

「ありがとう…ございます」

深々と下げた頭の下では、尽きることなく溢れ出る涙が、宝石の大河を築いていた。

【終】

(2013-01-06up)

リンドウ邸を訪れた小栗に、直々に呼び出されたゆきである。
常には無い事で、心なしか足が竦む。
都などは、初めから詰られるのだと決め付けて、ゆきを庇うべく同席すると言い張ったのだが、呼びにきたリンドウにすげなく断られた。
室に移動する間中、強張った顔をしているのを見てリンドウが苦笑する。
「神子殿、別に慶くんは君をとって食おうと呼んだわけじゃないよ」
「は、はい…」
それでも解けない緊張を見て、しかし、仕方が無いか…とリンドウは呟いた。
室に辿りついて、リンドウが襖越しに中に声を掛ける。
「御奉行、神子殿をお連れしました」
「入れ」
短い返事が返ったところで、肩を押される。
「それじゃ、僕はここまで」
「え!?」
「ほら、早く行かないと慶くんが待ってるよ」
「は、はい!」
その声は可哀想なほど不安気で、翻っては小栗が気の毒に思えるほどであった。
さて、ゆきが恐る恐る室に足を踏み入れれば、小栗が姿勢を崩すこともなく鎮座していた。
「どうした。近う寄れ」
事もなげに言ってくれるが、どうしたって足取りは重くなる。
「あの…」
珍しく、ゆきの方から言葉を継ぐ。
「なんだ、神子」
一寸溜めを作ってから堰切ったように言い募る。
「あの、私なにか間違えたことをしましたか?その、上手く行っていないこととかはいっぱいあると思うんです。他にも江戸の中で大変なこと、あると思うんです。それで、私…。他にも出来ることがあれば…」
これには、小栗の方が面喰らってしまった。
「どうしたのだ。何かあったのか」
逆に問うと、ゆきは黙ってしまった。
何も、小言を言おうと呼び出したわけではない。
神子に与えた任務は着々とこなされている。それは、彼女自身が分かっているはずだ。
それでも、晴れ切らない空と同じように時折、少女の胸中も乱れるのだろうということは何と無く理解できた。訳なき焦燥や不安には覚えがある。
しかし、それを己が想起させていると思うと、憤りを通り越して少しばかり胸が痛い。
つい、溜息を吐いてしまう。
そんな小栗の姿を見て、ゆきが視線を合わせてくる。
この少女の不思議さは、これ程に不安を抱かせる相手に対しても目を逸らさないことだ。
不安につけ込まれて骨の髄まで支配されてしまうとは思わないのだろうか。
(いや…)
一見、何も映さないのだろうと思うほどに静かな瞳は、奥深くまで、ただただ澄んでいた。
気を取り直して言葉を継ぐ。
「つつがなく日々こなしていると、報告を受けているが」
小栗は、やけに柔らかな声音になっていることを自覚しながら今一度問いかけた。
「気になって。少しでも江戸の市中は良くなっているでしょうか」
「そなたの目には、変化は感じられぬか」
「……」
「確かに、劇的な変化を望んでもそれは難しかろう。何事もそういったものだと理解している。急な変革を成すならば相応の代償を払わねばならぬこともだ」
だから、それ程までに気に病む必要はないと。己が理解を示す用意があると告げたつもりだった。
しかし、表情は変わらない。少女は蒼白だった。
「時間がないのに…」
微かな声は確かにそう言った。
その意味は分からない。だが、不吉な言葉だった。
誰の、何の時間が足らないのか。
リンドウは、何か大切なことを報告していないのではないのか。
僅かばかり、腹心の部下を疑ってしまったが、すぐに気を取り直す。そもそも、このような話をするために少女を呼び出したわけではない。
小栗は、自身の右寄りに置いたままになっていた重箱を引き寄せて、ゆきと自身の間に据えた。
「勇むのは構わないが、空腹では働けなかろう」
「大丈夫…ですよ?ちゃんと、食事はいただいています」
相変わらず素直なゆきの物言いに小栗は苦笑したあと、柔らかな笑みとともに言葉を継ぐ。
「空になるのは何も臓腑のことだけではあるまい」
開けてみよと促されて、ゆきは重箱の蓋をあけた。
「わぁ…!」
思わず感嘆の声が漏れる。
美しい漆塗りの重箱には、色とりどりの上生菓子がきれいに並んで詰められていた。
続けて二段目をあければ、ぎっしりと詰められた色も鮮やかな可愛らしい落雁である。
「そなたに下げ渡す」
「いただいていいんですか?」
「ああ、すべて神子のものだ」
「ありがとうございます!あ、これは水仙ですね。こっちは牡丹かなぁ」
さっきまでの憂いが嘘のように。ゆきは、丁寧に礼を述べたかと思えば、重箱の菓子に夢中になっていた。
あまりに稚い。しかし、どこか陰のある表情は消え去り、ただただ、陽だまりのような笑みを漏らしている。
「僅かでも、胸の痞えはとれたか」
「え?」
緩く微笑んでやれば、得心したのかゆきが告ぐ。
「もしかして、心配してくださったんですか」
あまりに直球な物言いに、ただ是と答えるのは余り面白くなくて、少しだけ婉曲なやり取りを投げる。
「よく働いている褒美をやれと。少しばかり疲れているようでもあるからと、リンドウが進言してきた」
「リンドウさんがですか」
本当は、少し違う。
褒美をという話になったのは事実だが、もう少し意地悪い理由でだ。
さて、何をやるのだ…という段になって、薩摩の家老が菓子で懐柔したようだとリンドウが言う。
「絹か調度かと申しつけたが、神子は物は受け取らぬと言うのでな。ならば、何が良いと聞けば菓子が良いと言う」
少し意地悪く笑みに乗せて言えば、目の前で重箱を手にしていたゆきが赤面する。
「そんな、もう…」
「くっ…」
あまりに、その様が可愛らしく滑稽で思わず肩を震わせてしまった。小栗にあっては珍しいことだが、今は二人だけ。誰も指摘などしない。
「なに。丁度、行事などあって縁起菓子を作らせていた菓子屋に納めさせた。悪いものではなかろう」
「あの、ありがとうございます」
「構わぬ。ますます精進せよ」
小栗の言葉に応えをするでもなく、再び蓋を開けた重箱を見つめたゆきが、何気なく問う。
「それで、小栗さんはどれがいいですか」
問われた意味が分からず、沈黙する。
「私は、やっぱり牡丹が気になります。小栗さんは梅の…」
ゆきが顔をあげると、怪訝な顔が目に入った。
「どうされました?」
「それは、私の方が聞きたい」
「小栗さんは、どのお菓子がいいですか」
小栗が深い溜息をつく。
「それは、そなたに下げ渡したものだ」
「だけど、折角ですし。沢山あるから皆で分けても数は十分あります」
小栗の言葉の意味など、どこ吹く風でゆきは微笑む。
この神子は、聡いくせにどうも言葉を正しく理解していない時がある、と小栗は思った。
もっとも、本人は意識外に己一人の手柄とせず、仲間皆を慮ろうとしているのだろうことは分かる。
しかし、それはそのまま彼女の甘さを表していて、いつかそれが志の妨げになるのではないかと。
度々苦言を呈していた星の一族の言葉が甦り、小栗を得心させた。
「では、改めて言おう。それはそなたに下げ渡したものだ。気遣いは無用だ」
「そう、ですか?」
「それと、やはり神子の褒美として菓子では不足したらしい。別に褒美をとらす」
「え?」
困惑した表情を返す少女に、小栗は断固として言った。
「それは、公儀よりそなたへ褒美として与えたもの。このように跡形も残らず人手に渡るのも困る」
「あの、そんな」
「神子、そなたの願いを一つだけ聞き届ける。ただし、際限ないものは不可能であることは弁えよ」
先ほどまでの朗らかさはどこへやら。再びゆきの顔は青白くなっている。
「期限は明日までだ。明日、願いを申し伝えに参れ」

「大層な意地悪をしますね。本当に御奉行は怖いな…」
「お前が甘やかした結果だ。反省しろ」
退出する小栗に付き従うリンドウに事の顛末を話すと、肩を竦めつつ面白そうに笑う。しかし、暗に匂わせるのは不満だ。
「はいはい。それで何でしたっけ」
小栗がゆきに告げた条件は二つ。
『期限は明日まで』そして、『小栗の権限で叶え得る範囲』の願いであること。
「どうしたものかな。彼女は決められると思いますか?」
「さてな。それと、俺を利用して神子を追いつめるような真似をするのはやめろ。乗るのは今回だけだ」
「ああ、そうですね」
右から左へ受け流す様に公儀の目付は言うと、駕篭に乗り込んだ主に声をかけた。
「それでは、明日もお待ちしていますよ。神子殿のこと、宜しくお願いしますね」
最上級の厭味と艶やかな笑顔に送られる。
今夜の夢見は悪そうだと小栗はひとりごちた。

結局、小栗との面会を終えて下がった後も誰にも相談出来ず、ゆきはひとり部屋で悩んでいた。
貰った菓子は、都をはじめ、邸に居る皆に配った。
大抵の者は驚き喜んでいたが、チナミや丁度邸に立ち寄った小松などに勧めると少し怪訝な表情をしていたように思う。
(やっぱり、私が何かへんなこと言ったのかな……)
はじめは柔らかだった小栗が、最後に断固としてあのような条件を告げたことを、ゆきは理解出来ずに居た。
迷いと戸惑いを抱えたまま、足が向いたのはいつもの睡蓮の池であった。

「ああ、神子殿」

そこにはやはりいつものようにリンドウが居た。
「こんばんは、リンドウさん」
「また暗い顔をして。御奉行に叱られた?」
「いいえ」
叱られた訳ではない。だが、些細なすれ違いから課題を与えられた。
しかし、その理由を分からないでいる事をリンドウに伝えるのは少し怖かった。

―――君、神子をやめる気はない?

また、そう言われるような気がして。
ただ、黙って池の水に手を浸しているとリンドウが横に並んだ。
「ねぇ、神子殿。君の純粋さは美徳であるし、己を省みず他人を立てるのも悪いことじゃない。だけど、果たしてそれだけが正解だと言えるのかな?」
「どういう意味ですか?」
「もう少し思慮を持つことも必要じゃないかな。信念を貫くにはただ真正直であればいいというものではないよ。君、相手の気持ちを本当に考えた事がある?」
「相手の気持ちを…ですか?」
いつだって、自分のことは二の次で。そう、周囲からたしなめられることはあっても、人の気持ちを考えた事があるかと聞かれたことはなかった。
「嬉しい事は嬉しい。悲しい事は悲しい。それは正しいけれど、すべてが君の考える通りだとは限らない。ねえ…」
リンドウは言葉を切ると、ゆきの顔を覗き込んだ。
「君と僕とは違うでしょう。君が思う通りに僕が思うとは限らないんじゃないかな」
「それは……」
返す言葉がないまま俯く。そんな姿を見て、リンドウは少し語気を緩めてゆきの隣に座りこむ。
「多分、君には分からないだろうな」
「そんなことないです。分からなくても考えます」
「無理するような事じゃないよ。それでもいいんじゃないかなって、僕も思うから…」
ただね、と前置きしてリンドウが首を傾げた。目の前の花はますます光り輝いて花弁を散らし続けている。
「あまりに明け透けに自分をさらけ出して。自分を犠牲にすることも厭わない姿を見ていると不安になるんだよ」
「リンドウさん……」
「皆が、君のそういう姿をどう思っているか分かる?分かっていて貫くのなら誰も何も言わない」

(分かっているのかも分からないから不安になるんだ…)

リンドウの言葉を反芻しながら、部屋に戻り襖戸を閉める。
ゆきは、すでに用意された床にしゃがみ込んだ。
「時間が無いのに……」
日に日に腕は透けて行き、蓮の花も少なくなっていく。
それなのに、漠然と思いばかりは積もって、しかし、自分には分からない事だらけで皆に心配をかけている。
明日は、小栗に自分の願いを伝えなければならない。
「私の願いごとって、何だろう」
改めて考えてみれば、恐ろしい程に頭には何も浮かばなかった。
思わず両腕を抱えると震えが走る。
―――江戸の平穏、市中の皆が幸せに暮らせる様に。
例えば、そんなことを自分が小栗に願えようか。
(願ってどうするのだろう。それを小栗さんに叶えて欲しいと私が言えるの?)
心が決まらないまま、床に潜り込む。
私は、どうしたいのか。
やはり降り積もるのは、漠然とした物思いばかりだ。
目をきつく瞑り、ただ無心であろうと念じ続ける。
やがて、眠りに落ちた。

夜も更けているにも関わらず、眠りは訪れず燭台の灯りも尽きようとしていた。
蝋燭を足すために近侍を呼ぼうとして止める。いい加減、諦めて床に入るべきなのかもしれない。
書き物の手を止めて、小栗は燭台の灯りを消そうと膝を進めた。
耳を澄ませば、灯芯を焼くチリチリという音が聴こえる。
ゆらめく灯りは、まるで、あの少女の心を表しているようだった。
今にも消えそうで儚く、しかし思いを秘めて熱い。心決まらぬように揺れ続けている。

龍神の神子は、小栗の前でいつもそうだった。
怯えていたかと思えば、ほころぶように笑み、次の瞬間にはこの世の終わりを見たような顔をする。
平時であれば、少女の幼さゆえの移り気と思えない事もないが、彼女の置かれた状況を顧みるに不安定な心を案じずにはいられなかった。

(いっそ、ただ不安に泣き、歓声をあげ、愚鈍に喜べばいいものを)

小栗を恐れているくせに、与えられれば媚び喜んで見せるような、ただの女であったら良かったのに。
そうでないからこその龍神の神子であり、娘の価値なのだから、この物思いは全く無駄だった。
そして、常々、彼女に対して子どもじみた意地悪さを見せていた従兄が存外、神子の歩みに気を揉んでいたことも意外な発見だった。
(しかし、それも当然か…)
神子を哀れに思おうとも、ある程度は思惑通りに歩んで貰わねば首が締まるのは使う側だ。
そのことを、発案者たる従兄殿は良く分かっていた。
だからこそ、小栗を利用してまで彼女の道を曲げて、縛り付けようとしている。
せめて、その結果が成就せねば、余りに二人が哀れであった。
だがしかし……。
一寸の後、我に返る。
何を考えようとしたのか。
働きが鈍くなりつつある頭を振った。
引き返すには遅きに失している。

人を縛るには契約が必要だ。

それ故の褒美であった。
褒美…報酬を介して契約に縛る。
哀れになど思う必要はない。
引き換えに得られるものが、旗本であれば俸禄であり、自分にとっては日本の安寧秩序であるだけだ。

神子にとっては龍神の奇跡であるだけなのだから……。

翌朝、いつものように市中へ怨霊の浄化に出るものの、どこか気はそぞろだった。
少し後ろからついてくるリンドウには、そんな心を見透かされて居るのではないかと、ゆきは気が気でない。
まだ、漠然とした物思いはあれども、言葉として纏まりそうもない。
やがて昼を過ぎて、日が傾きはじめる頃合いだった。
「さて、そろそろ打ち止めと言ったところかな」
同行する小松が口にした。
「申し訳ないけど、所用があるから私はここで失礼するよ」
皆がうなづき見送る中で、ふと身を屈めて小松がゆきに耳打ちする。
「ゆきくん。そう簡単に気を許すのではないよ」
「え?」
そのまま、去り際に、さらに釘を刺すように言う。
「仮にも、神の遣いだという子を俗世の争いに巻き込むだけでなく、策を弄して陥れるのは感心しませんね」
「忠言痛みいるよ、帯刀くん」
そうと名指しされた訳でもないのに、当然のごとくリンドウが返答した。
「まあ、策でも何でもないし。京には神の末裔たる方を弄ぶ輩も居るんだから、今の世に秩序などないよ」
「二人とも、往来で話すことではないでしょう」
「帯刀、早く戻らにゃ藩邸が騒ぎになるんじゃないか」
流れる不穏な空気に、瞬と龍馬が割って入った。話は中断される。一同は帰途についた。
リンドウ邸への帰路、何処となく重い空気が流れる中で、リンドウがゆきの隣に並ぶ。
「さっき、帯刀くんが言っていたことだけれど、良く肝に命じるんだね」
「…どういう意味ですか」
「まだ分かっていないみたいだから言うけれど、御奉行が君に褒美を与える意味をよく考えた方がいい。君なら分かる筈だよ」
訝しむゆきと目を合わせることなく、告げる。
「龍神の力は、命の代償でもあるし、献身への褒美でもあるってこと。君は知っているよね」

小栗忠慶が邸に到着したと聞いたのは、夕餉の時間も過ぎた夜半だった。

いよいよ対面する段になって、ゆきは逃げ出したい気持ちを必死に抑えつけた。
室の前までくると、以前の様にリンドウに肩を押される。
「失礼します」
室には、無言で小栗が座しており、ゆきは恐る恐る下座に歩を進めた。
再び二人きりで室に残され、沈黙が続く。
昨夜からずっと考えても分からずにいたが、小松やリンドウの再三の忠告で朧げながら自身に求められているものが見えそうにはなっていた。
恐らくは、自身の不安が身から滲み出ているのだろう。
隠そうにも、今のただ漠然と歩む日々に対して不安の源は大き過ぎた。
考えなくてはと思う。
無理矢理するようなことではないと、リンドウには言われたけれども、いつかは苦しんでも出さなければならない結論もあるだろう。
ただ、その為にはゆきはもっと知らなくてはならなかった。

「願いは決まったか」

ようやく、小栗が口を開く。
ゆきは、ゆっくりとうなづいた。
「ならば、申してみよ」
「…小栗さんの話を聞きたいです」
ゆきの答えに、またしても不可解な言葉を聞いたと言わんばかりに小栗の眉が顰められる。
「どういうことだ」
「はじめ、私は右も左も分からない状態でリンドウさんの話を聞いて、お互いに利があるからと江戸の浄化を始めました。でも、今の私はそれだけでは前に進むことに不安を感じています」
時々、足がすくんで今にも止まってしまいそうになる。
その度に、自分がやらねばならぬと言い聞かせて顔を上げてきた。
頭を過る物思いに膝の上の掌を握りしめた。
「小栗さんが支持する一橋派のことを教えてください。小栗さんはどう考えているのか。何が小栗さんの背を押しているのか…」
「聞いてどうする」
抑揚なく告げられる平坦な低い声音に背筋が震えたが、拳を握り直して堪えた。
「知らなければ、心がついていけないんです」
「……さようか」
相槌のあと、再び沈黙が続いた。
ゆきは、言ってから少しだけ後悔した。
江戸を知りたい、政情を知りたい。
……小栗を知りたい。

少しずつ踏み込もうとする自分を拒絶されない確証などなかった。
それならば、神子など必要ないと言われぬ保障がどこにあっただろう。
否、必要ないと言われることを、何故自分は恐れているのだろう。
それでも、一度こぼれ落ちた言葉は止まらなかった。
「…以前、 小栗さんは体調が悪そうなのに、それを黙って堪えていました。小栗さんがそこまでする理由って何ですか」
「それを知れば、そなたは歩み続けられるというのか」
頭上に降った言葉に弾かれて顔をあげる。眼前に居た筈の人物が立ち上がっていた。
(怒らせた…)
見上げたまま拳を握る。
「この取引がどのような意味を持つか、そなたは知って申しているのか」
見下ろす瞳はいつかのように底冷えのする冷たさだった。
しかし、引くことは出来ない。
引けば全てが終わってしまうと直感した。
「…分かっています。私は白龍の力を使う神子ですから」
「ほう…」
「私は白龍の神子となる代わりに、神の力を使っているんです」
言い切って再び俯くと、近くで衣擦れの音がした。それを合図に目線だけあげると、小栗が去ろうとしているところだった。
「あの…っ」
「よかろう、そなたの願い聞き届けた。明日、遣いをやるゆえ、それに従え」
「小栗さん…」
「明日の朝だ。ゆめ遅れるな」

その日の帰り、小栗はただ終始無言で考えこんでいた。
見送りに立つリンドウにしてみれば、傍にいる自分に対して一言も無いのが少々腹立たしい。
「御奉行、神子殿との話はどうなったんですか」
わざわざ聞くのもしゃくに障るが仕方が無いと割り切る。
刺がある言い方だったのに、当の本人はいつも通りの明快さで応える。
「明朝、遣いをやる。神子を借り受けるゆえ承知しておけ」
「はぁ…」
「供はいらぬ」
その言葉にぴくりと肩が反応した。肩に手をやりつつ首を傾げて問い返す。
「一体どちらへ行かれるのですか」
「後で神子に聞けばいい」
すげない対応に様々な可能性を思い描いた。さて、あの神子殿は御奉行に何を吹き込んだのだろう。
見送りのあと、その足で庭へ向かえば神子が居た。
この日課は覆されない。
水面を見つめる表情は変化なく虚ろで、しかしその虚ろが静けさの中で清浄にも見えた。
まるで、神と通じ合っているようで、それがリンドウには面白くない。
彼女が小栗に何を願ったのか、聞けばすぐに答えてくれるだろう。
それでも、何故か話しかけるのが躊躇われた。
「面白くないことばかりだ…」
どうせ、運命は変わらないのに。

明朝、約束通り遣いが来た。
リンドウに見送られ駕篭に乗り込んだものの、門を出る少し手前で密かに下ろされる。
困惑して辺りを見回せば腕を引っ張られた。
「…!?」
「行け」
短く命じられると、駕篭はゆきを置いたまま門を出て行ってしまう。
自身はいま、腕を取られ口が塞がれて声が出せない。
こんなことが以前もあった。そして、声に覚えがある。
「離すが騒ぐな」
首を振って承諾すると、手が離された。
「っ、小栗さん!」
「徒歩で行く。行くぞ」
声の主は、それだけ言うと振り返る事なく門をくぐった。
しばらくは、何も言わず後ろからついていったが疑問ばかりで問いかけたくなる。
「あの…」
「なんだ」
「どうして駕篭を」
「形だけだ。さすれば、駕篭の行く先に目がいくだろう」
「だったら、最初から言ってくれれば」
「要らぬ勘ぐりをされたくない」
「小栗さんが直接来られるなんて知りませんでした」
「告げていないからな」
答えは端的で、それ以上は会話が続かない。
「それでどこへ行くんですか」
ここで、初めて小栗が振り返った。
「水戸藩邸だ」
「…小栗さんは水戸藩の人だったんですか」
「…お前が属する一橋派の担ぐ公は水戸の出身だ。今や、只それだけの間柄ではあるが」
「でも…」
「もうよい、口を噤め。いたずらに名を出すと碌なことに巻き込まれかねん」
リンドウ邸から、さして遠くないところに邸はあった。
御三家として永く栄える大名家の邸は広大で、門番も物々しい。
しかし、正門を避けて裏口に廻る。そこには、水戸藩士らしい人が待っていて、小栗に深々と礼をした。
「小一時間で離れる。しばし待て」
「は…」
遠ざかって行く藩士を横目に中へ歩を進めると、眼前に梅林が広がった。
蝋梅の香りに、外れには低木の寒椿が咲いている。
「すごい…」
「まだ、盛りとはいかぬか」
ゆきが感嘆の声を漏らすと、それを拾う様に小栗が言う。
そのまま歩を進めると、奥まった場所の向こうに池が見えた。
「神子、そなたの願いは承知した。何でも聞け」
いざ、そう告げられると言葉が出ない。
ゆきは、ぐるりと周囲を見渡した。そして、ゆっくりと歩を進めながら逡巡する。
かつて尋ねたことのある薩摩藩邸などとは、随分と趣きを異にする庭だった。
リンドウ邸の庭とも違う。
様々な花が咲き乱れ美しいが華美ではない。趣向を凝らした建造物が立ち並び、歩を進めるごとに景色が変わるが整然としている。
これほど多くの面を持ちながら決して軽々しくはなくて、静かな重みを感じさせるのだ。
どことなく、この庭は小栗の印象に似ていると思った。僅かばかり目を伏せてから告ぐ。
「私は…、私の願いは自分の世界を元に戻して、この世界も失われない様にすることです。その為に、怨霊を浄化してまわっていると、江戸の人たちの生活を垣間みることになります。そうすると、私はこの江戸の人たちも大切だと思ってしまう」
「思ってしまう、とは」
「どんな人であっても、目の前で困っていたら助けたい。瞬兄とかリンドウさんとか、皆が言う事は分かるんです。私に出来る事は限りがあって、あれもこれもと欲張ってはいけないって…」
「さようか…」
「でも、時々、分からなくなります。私がするべきことって、私が出来る事ってなんだろうって」
「立ち止まれば、答えは出そうか」
「いいえ…」
やがてたどり着いた池の淵に座って水面を覗き込む。映った顔は虚ろだった。
「神子。私の志を尋ねていたな」
「はい…」
小栗の言葉に、彼の方を見上げる。すると、公儀の奉行は頭巾を外して同じ様に隣に座った。
そして、水面を見つめて言う。
「正直、私にも己の志はよく分からぬ」
意外な言葉だった。
「…え」
「しかし、やり遂げねばならないことはある。いわば、使命か。私が此の世に生を受けるに足る理由だ」
「やり遂げなければならない…」
「理由はない。なぜなら、私が私であるが故に与えられた使命なのだから」
小栗が薄く笑った。
「一橋派であろうと南紀派であろうと、私がすべきことは変わらない。世の便宜上、そういった名で分けられているだけだ。神子、そなたのなすべき事も、いずれに付くかで変わるようなことなのだろうか」
「いいえ」
「ならば、物思いに捕われず己がすべきと思う事をすればよい」
見つめた横顔はどこか影がさしていた。なのに顔では笑っている。
一瞬だったが、秘めた苦悩が透けて見えていた。
「そんな風に、自分で自分を縛るのは苦しくないですか」
「さて、分からぬな。心ひとつで、いかなる苦難も越えて歩み続けることが出来るのは人だけだ。それに、己の中で答えは出ている」
「小栗さん…」
「私は止まらぬよ。苦しかろうと、そうでなかろうと」
「そう…ですね」
ゆきは、小栗から視線を外して再び水面を見つめた。
(そうだった…。私も、今度こそは全て守ると決めたのに)
まだ、これから何度でも心は揺らぐだろう。しかし、物思いのどれも同じこの思いから発している筈だった。
「本当に…、そうですね」
言った自分の手のひらに、瞳に生気が戻るのを感じた。繰り返し言い聞かせる。
「気は済んだか」
柔らかいがはっきりとした声に横を見やると、先まで見えていた影は潜められて、いつものような清冽さを纏った小栗が居た。
「もういくつか、聞いてもいいですか」
「構わぬ」
「小栗さん、一橋公ってどんな方なんですか」
珍しく、問われた小栗の目が丸くなる。
「それは…」
「すみません。偉い人のことを色々聞くのは駄目なんですよね。分かっているんですけれど…」
無防備に、世間に名の知れた人物のことをあれこれ聞くのは、詮索をしていると疑われるだけだと、何度か瞬に注意を受けている。だけど、小栗やリンドウを動かして、しいては自分に繋がっているこの大名について、ゆきは聞いてみたかった。

思わぬ神子の問いかけに小栗は問いで返した。
「昨日言った事を覚えているか」
「すみません、どのことですか?」
「この取引がどのような意味を持つか承知しているかと」
「はい。それは、覚えています」
即答だった。またしても、ともすれば思慮にかけると思われる神子の反応にため息がでる。
まして、何故に人物を尋ねるのか。
およそ派閥の長など、奉られているだけで当人に意思などない。人となりを聞いたところで、近付けるべくもない。
真意を計りかね、重ねて問う。
「それなら、なぜ、物をねだらなかった。物であれば手元から離してしまえるのに。目に入れないことも出来る」
「でも、それでは駄目だと。だから、もう一度褒美を渡すと言ったのではないんですか」
それは思い違いだ。
菓子を与えたのだ。菓子ならば呑み込んでしまえば消えてしまう。自分ひとりで食べ切れば誰に感付かれることもなく、契約は腹の中に納められた。それなのに、彼女自身が道を外して踏み込んだのだ。
再度、機会は与えたのに彼女は思った道を歩まない。やんわりと繋ぐだけの筈だったのに、神子は限度を知らずに踏み込もうとする。
それと知っていて持ちかけたはずだろうに、結果的には従兄殿の慈悲は無駄になったわけだ。
加えて、尚も深みに足を踏み入れるとは、どういう了見か。
「公のことを知りたいのか」
「はい」
やはり即答で、もはやこのやり取りは覆らないだろうと小栗は観念した。
「…一橋公は、水戸藩主の七男でこの邸で生まれた。嫡子であったが同様の兄君が何人かおられたゆえ、およそご自身が世間に担ぎ出されるなど思ってはおられなかった」
それが、どういった訳か知らぬ間に神君の再来かと勝手に奉り上げられて、担ぎ出された。
「まったく馬鹿馬鹿しいことに、気付けば救国の志などと決めつけられて神輿の上に居たというわけだ。降りようとも両脇に刃を立てられて身動きが取れぬ」
「それで、代わりに小栗さんやリンドウさんが動いているんですか」
「なぜ、そう思う。派閥を勝たせるために神子を利用していると言っただろう。刃を立てている側かも知れぬ」
「でも、小栗さん。不安そうな顔をしていました」
考えてもいなかった言葉に胸を突かれる。
「一橋公が心配なんですよね。そんな風に意に反していたとしても、一生懸命務められているのを見て」
「気のせいだ」
「そうでしょうか」
これまで、そんな風に考えた事はなかった。確かに僅かばかりでも己の身を案じるものは居たかもしれない。
だが、総じて自分は孤独だった。己の苦悩を知る者は己だけだった。
告げても理解はされぬ。それに、いつ何時であっても内なる炎は秘めておくのが身に染み付いた教えだった。
ひとつ息を吸って、心を鎮めてから小栗は続けた。
「それほどまでに、他人の心を慮るのは神子の美点だが…」
「はい」
「気をつけよ。つけ込まれずとも、いつか受け止め切れぬ時が来る」
きょとんとした目で少女がこちらを見た。恐らくは、言葉の意図など分かってはいまい。
だからよせば良かったのに。彼女の願いは、完全に小栗の胸の内に刻み込まれてしまった。
言葉ひとつで、神子を縛る術を得てしまった。
「…そろそろ行くか。他に聞きたい事があればいつでも尋ねるがいい」
「え?」
「ここに居ては、冷える。まだ話があるならば道中聞こう」
立ち上がり歩み始めれば、神子が慌てて追ってくる。
「待ってください。あの、さっきの話…」
「神子の願いは有効だ。そなたが尋ね、それに私が答える限りは」
「でも、それは…」
「ああ。そなたが考える通りだろう」
与え続ける限り、この契約は有効だ。
それに、彼女の性質上、一度願ってしまったならば尋ねずには居られないだろう。
心揺れようとも、求める答えを得るまでは歩みを止めることなどありえない。
龍神の神子とは、そういった少女だった。

「お帰り、神子殿」
「ただいま帰りました。リンドウさん」
昼が過ぎた頃、リンドウ邸に戻ると邸はひっそりとしていた。
「思ったより早かったね。皆、今日は休息日にして外へ出ているよ」
「それで静かなんですね」
「御奉行との話はどうだったの。どんな褒美をもらった?」
リンドウにしては珍しく、興味津々といった風に聞いてくる。
「小栗さんに、ものは貰っていません。お話を聞きたいとお願いして…、いつでも聞きたい事は尋ねてよいと言われました」
「…ふぅん。そう」
リンドウの声が少し固くなったことに、ゆきは気付かない。
「随分、差し出たお願いをしたみたいだね」
「そう…ですか?」
「公儀の奉行が、神子とはいえども只の女の子の話をいつでも聞くと言っているんだよ」
あり得ないことでしょう?と、リンドウは言うと、思案するように首を傾げた。
「へぇ、そうか…」
「え?」
「気前のいい話には気をつけた方がいいよ、神子殿」
「は、はい」
「それで、神子殿はこの後どうするの?」
言うだけ言って、からりと話を転換する。
「あの、一度部屋に戻ります」
「そう。僕は自室で仕事をしているから、用事があったらおいで」
「はい。ありがとうございます」
そう告げてリンドウは踵を返した。後ろ姿を見送ってから、ゆきも自室に向かう。

部屋に着くと、障子戸が開けられていた。
清々しい空気と庭の色彩が目に飛び込んでくる。
冷えた空気を胸いっぱい吸い込んで息をついた。
(やっぱり違う…)
ゆきは、小栗に連れられた水戸藩邸の庭園を思った。この邸の庭とはやはり違う。
リンドウの庭は、言うなれば優しい女性の手のように、ゆきの心を慰める柔和な庭だ。
対して、藩邸の庭は、その広大さもあいまって、あれ程の静けさだったのにも関わらず圧倒するような気配が感じられた。
「でも、怖くはなかった…」
小栗との会話を思い出し反芻する。
脅かすように言われたが、ただ彼は案じてくれて居ただけだった。
(そなたが尋ね、それに私が答える限りは…)
はじめから、際限ない願いは叶えられないと言われていた。
だから、あの言葉は多分、与えられ得る最上級の褒美だった。
「いつかは、途切れてしまうの…?」
ぽつりと漏れた言葉は考えてみれば当然で、いつかゆきは役目を終えて元の世界へ帰る。小栗もまた、宿願を遂げれば次の道へと行くのだろう。
迷いそうになる心に、いつの間にかそっと灯りを燈して導いてくれた。
いつから気付かれていたのか。
(あのひとには、何が見えているのだろう)
使命のためには、苦しくても進み続けると言っていた。
何が、彼を突き動かしているのだろう。
それは、主君のためなのか。それよりも大きな何かがあるのだろうか。
小栗は、聡明なひとだと思う。
以前辿った時空で、ゆきは沢山の志士達の志を目の当たりにした。彼らは等しく懸命であるがゆえに愚直だった。
己の志が分からないと言った聡明なひとは、何を見ているのだろう。

自室の文机の前で、小栗は目を瞑っていた。
邸に戻ればひっきりなしの面会の約束を片付け、しばし脳裏のよろずごとを整理する。
「失礼いたします」
声とともに室へ入ってきたのは、一橋家にきてより長く仕えている近侍であった。
「どうした」
「随分と長く考え込まれているご様子でしたので」
小栗が眉を顰めると、差し出た事を申しました…と近侍は平伏した。
「よい。このところ物思いが多いのは自覚している」
「本日は、どうしてまた里の本邸へ参られたのですか」
恐縮した振りをして、差し出た事を聞いてくるのがこの近侍の悪い癖だった。
「…さてな。しかし、物思いに耽るにはうってつけの場所だと思わぬか」
「全くおっしゃるとおりで」
得心したとばかりに、再び眼前の男は平伏した。
ゆるく手を振れば、機嫌伺いも去って、再び室には小栗一人だけになった。
脳裏には、昼間、神子に言われた言葉がひっかかっていた。
不安気であるなどと、ついぞ言われたことなどなかった。
実際、己の抱えている不安とは何であろうか。
自身は尊王攘夷思想の強い家に育った。母は公家の出身だ。
しかし、今は徳川宗家の身内として生きている。徳川宗家とは武家の総領である。
人々は噂し、持ち上げては勝手に突き落とす。意に沿おうとすれば、貴方のお役目は正道には無いのだと言わんばかり。
何を企むやと勘繰られ、逆らえば、さもあらんと糾弾される。 時々、己は何を守っているのか見失いそうになる。
それはまるで、昼間の神子の述懐のようだった。
恐れるのは、何も守れずに舞台を去らねばならなくなることだ。
何を守るべきなのか分からずとも、自分は守らなければならなかった。
勝手に舞台に引きずり出されたという思いは拭うことは出来ない。
だが、何もせずに居る事は出来なかった。
なぜなら、それこそが己が生を受けた理由なのだから。

翌日、顔を合わせるなり開口一番リンドウが言う。
「昨日は有意義にすごされたようで」
「ああ、そうだな」
いつも通り、平坦な声音で答えればリンドウが面白くなさそうに口を尖らせた。
小栗に対して年上ぶるくせに、こういうところは際だって分かり易い。これは、嫉妬だ。
「あの危なっかしい神子殿がふらふらしないように、褒美をあげてくださいとは言ったけれどやり過ぎじゃないですか」
「そうか?」
「いつでも求められれば答えるだなんて、言い過ぎだ」
「そんな言い方はしていない」
「言葉尻など瑣末ごとですよ」
ひとしきり不満をぶつけたあと、ふと真剣な顔で従兄が言う。
「気をつけてよ、慶くん。僕は、神子殿も貴方も不安でしょうがないよ」
「それは、かたじけないな」
「本当に、気をつけてよね…」
リンドウの心配はもっともで、今の自分には余計な隙をつくる余地は無い。
周囲に虚勢を張ってでも、漬け込む余地は与えるわけにはいかないのだ。 何事もないかのように笑んでみせてから険しさを表情に乗せる。
「まあいい。リンドウ、先日の懸案について報告せよ」
「…、承知しました」

気付かねば過ぎ去っていたかもしれないのに。
僅かばかり芽吹いた思いが心に根を張って行く。

「どうした、ゆき」
「え、っと何でもないよ。ごめんね、都」
「ゆき、よそ見をしないで歩いてください」
ふと、背中を通りすぎるものを感じてゆきは振り返った。
それは、ただの勘違いだったけれど、何かが背中合わせに添うている気がした。
「おーい、お嬢!こっちだ」
「はい!」
呼ぶ声に、見えそうになっていたものを忘れて駆け出す。
やがて、その根は伸びて心に絡み付くのも知らず。

【終】

(2013-04-16up)

ゆき、桜が咲いた
ゆき、新茶があるぞ
ゆき、花火を見よう
ゆき、紅葉が美しい
ゆき、初雪だ

「ゆき、…」

いつもなら、名を呼ぶとすぐ返る声が聴こえない。
訝しんで首を回したところで、長く仕えている老女中の声がした。
「奥様は寺子屋に行ってらっしゃいますよ」
言われて苦い顔をする慶喜に、その奥方に代わって茶を差し出すと老女中が続ける。
「いつも、週中この時間には出掛けられているではないですか」
お忘れですかと微笑まれて、きまり悪く言い返す。
「春には学制も整う。あれが出る幕ではなかろう」
「だからこそ、余計に…なのでございましょう」
慶喜をよく知る彼女は一歩も引かない。この辺りは仕える主によく似ていた。
確かに、はじめは気分転換にでもなればと始めたはずなのに、今や週一度かかさず彼女は寺子屋へ通う。ぼんやりとしている癖に分け隔てなく世話を焼きたがる性分なのだ。
そもそもの事の発端からして、本来ならばありえない経緯だった。
どこで知ったのか、ゆきが西洋の言葉や事柄に明るいと聞きかじったものどもが英語を教えて欲しいと群がってきたのだ。

今や数ならぬ身になったとしても、かつての将軍家の奥方なのである。

それなのに、身分も立場もばらばらの得体のしれない連中に頼み込まれて、いささか無謀な依頼を二つ返事で受けいれてしまった。
立身出世をはかる有象無象に加えて、最近では下々の子どもたちの手習いを見ているという。
当然のことながら反対したが、寵愛する妻にねだられて無下にするのは、さすがの慶喜にも出来なかった。何しろ政略も何も関係なく愛して一緒になったひとなのだ。
止むを得ず、語学志望の連中はどうしたって血気盛んな男ばかりになりがちだから、屋敷を開放した。広めの一室に籠めて見張りも置いた。時々は、自らも机を並べて、ゆきの講義を聞いた。
はじめは意気はやっていただろう連中も、共に机を並べるそのひとの、ただならぬ圧力を感じてか黙々と勉強に励んだ。それはそれは、大層やり辛かっただろうが、そんなことは慶喜の知ったことではない。
子どもたちについても、厳しすぎると言われたが女のみを対象とさせた。
これでも、かつてなら考えられないほどの譲歩だ。
しかし、間も無くその必要もなくなる。国民は一様に男女の差なく教育を受けられるようになるのだ。
今はなき幕府を経て新しく樹立された政府は少しずつ機能し、この国を西洋列強に並び立つ国にするべく舵を切っていた。
離れた所から見るにつけ、目に余ることも多少はあれど、概ねその新しき政策は受け入れられることだろう。
例えば、この教育制度など然りだ。
「講義を受けに行ってくる」
言って裾を払えば、老女中が微笑んで見送った。

屋敷にほど近い商家の一室で、教室は開かれていた。かつての駿府城に連なる城下町とはいえ、江戸や大阪のそれとは比べるべくもない。
出迎えた主を手で制して、こっそりと教室へ忍び込む。
「…さん、良くできました」
聞こえてきたのは、柔らかでいながら凛としたゆきの声。
「かよさん、良くできました。ちえさん?はい、良くできましたね」
しばし、襖に手をかけたまま佇む。慶喜は彼女の声が好きだった。それは惚れた弱みという以上に、恐らくは初めて声を聞いた時からだと思う。
ここに至るまで、幾度も言葉を交わした。あの声は、ささくれ揺れる心を何度も慰め勇気付けてくれた。
そっと襖戸を開き、一番後ろの席に座る。
ゆきは、気付かぬ様子で生徒ひとりひとりと目を合わせながら講義を続けている。
ひとの目を逸らさずに見つめるのも彼女の特異なところだろう。
出会ってから10年近くが経って、今が盛りであろう美貌は、若い頃の瑞々しさがまろみを帯びて、一層、彼女らしさを引き立てている。
目を瞑り耳を澄ませば、愛してやまない声がする。
「‥さん、良くできました。次は、……えっ」
一寸驚いたような声がした。
「…慶喜さん?」
呼び掛けに応えて目をあける。案の定ぴたりと目があった。
「ようやく気付いたか」
「すみません。今、気づきました」
熱心に講義を受けていた女生徒達も慶喜に気付いてさざめく。
にわかに途切れてしまった時間に、どことなく申し訳ない気にもなって慶喜は言った。
「こちらこそすまなかった。ここで大人しくしている」
それでも帰る気にはならなくて、ここに居たいと遠回しに訴えれば、ゆきが柔らかく微笑んだ。
「それでは、慶喜さん。今は漢詩のお話をしていたんです。何かひとつ、ご披露してくださいませんか」
「…、どのようなものがいい」
「そうですね、彼女たちの門出に」
しばし思案してから朗読する。
その声は、在りし日から変わらず朗々と響いて周囲はただただ聞き入った。

結局、ゆきとともに女生徒達を見送りそのまま帰途につく。
「今日はありがとうございました」
「いや、女生徒に贈るにはいささか、粗野な詩だった。気が利かずすまぬな。しかし、漢詩など教えているのか」
「今日は特別なんです」
普段は、教養に近いことを教えている。しかも、ゆきは10年暮らしたと言っても、まだこちらの世界に疎い。
「最後だから、皆の興味があることをお話しましょうって。ちよさんのお兄さんが諳んじてらした漢詩のお話が出てそこから」
楽しそうに笑う。
「なるほど。近頃は女子の方が血気盛んらしい」
「そうですよ。新しい時代が来て、女性には守らなければいけないものが沢山あるんですから」
「さようか」
慶喜が笑みを向けてやれば、嬉しそうに続ける。
「慶喜さんが詠んでくれた漢詩、私の心にも響きました。花も嵐・・・大変なこと沢山ありましたし、全部置いて新しい世界に飛び込んで」
「寂しく思うか」
「全くないと言ったら嘘になりますけれど、私は今が幸せだから十分です」
健気に言う姿に悲壮感は無い。だから、要らぬ心配はしない方がよいのだろう。
「そういえば、生徒達に名を呼ばせているのだな」
「はい。これまでは”先生”ってつけてもらっていましたが、今日以降は先生じゃありませんから」
「さようか」
少しの不満を滲ませて言うと、ゆきが諭すように告ぐ。
「これまで”ゆき先生”で来たのに、いきなりまた奥方様とか呼ばれるの嫌なんです。それに、これから開かれた世の中になって行くんですから」
こちらの方が普通なんです、と、彼女の知る先の世界のことを言った。
「女子たちはまだ我慢出来るが、どこの馬の骨とも知れない男にその名を呼ばれるのは気分がいいものではないな」
「あら」
慶喜が言うと、わざとらしくゆきが驚いてみせる。こういう所は、すっかり初々しさを無くして臈長けた女のものだ。
「慶喜さんだって、名前で呼ばれているじゃないですか」
確かに、町では自分を”けいき様”と呼んでいるらしい。そう話しかけてくるものも居る。
「しかし、本当の名を呼んでくれるのはそなただけだろう」
手を伸ばして隣の小さな手のひらを握りしめる。
「慶喜さん?」
「様々な名で呼ばれてきたが、ゆきだけは変わらずそう呼びかけてくれる」
自分自身不思議なのだ。どうしてそんな風に思うのか。
「安心する。ゆきの隣に居る自分が本物だと思うことができる」
「私もですよ。少しずつですけれど、慶喜さんが私を”神子”と呼ばなくなって。やっと、私は龍神の神子ではなくて、ただの恋する女の子に戻って」
一度言葉を切る。
「今は、ちゃんとあなたの奥さんになれたかなって。そう思うと嬉しいんです」
「何をいまさら。それ以外のものにはなれぬぞ。それ以外にもさせぬ」
「慶喜さんこそ・・・!」
繋いだ手がぎゅっと握りしめられる。ふと隣を見やれば飄々としていた筈の愛妻が頬を染めていた。
「これまで散々頑張ってきたんですから、これからの人生は私だけのものです。そう言いましたよね」
「そう言った」
ますます赤くなるゆきを見て、慶喜は声を出して笑った。かつては、笑うなどということはほとんど無くて、ましてや女性を横に街中を歩くなど考えられもしなかった。
「強欲な妻を持つと苦労するものだ」
おどけて言えば、ゆきが「もう!」と声を上げて腕に抱きついてくる。
「どうした、今日はやけに甘えてくるな」
「だって、長いこと見ていた生徒たちを送り出して、私だって寂しいんです」
すがりついてくる頭を反対側の手で撫でる。
「しばらくは、俺だけで我慢するのだな。まったく・・・」
そのまま顔を寄せて額に口づけた。
「愛する者が強欲では苦労するばかりだ」
ゆきが頬は染めたまま不思議そうな顔で見上げてくる。
「なに、望みはすべて叶えてやりたいと思ってしまうだろう」
諦めにも似た、幸せそうな笑みとともに慶喜が言うと、ゆきが見上げた目を逸らさずに告げる。
「ごめんなさい。でも、ありがとうございます」
「ゆき」
「はい、なんですか」
「来週には桜が咲くらしい。二人で見に行こう」
「はい、一緒に行きましょう」

【終】

(2013-03-10up)

夕立に降られたのを、庭の東屋から母屋へと無事帰還できたのはひとえに慶喜の判断によるものと言って間違いなかった。
あの後、再び雨脚は強くなり、いよいよ日が暮れて季節は夏とは言えども凍えることになっただろう。
たどり着いた二人を、幕臣はじめ女中らが慌てて出迎えて、今はゆきは女中達に囲まれて一室に居る。
慶喜はと言えば、お礼を告げる間もなく受け取った手ぬぐいで顔、首筋を拭いつつ、そのまま歩いて行ってしまったのだった。
慌てて追いすがる慶喜の近侍たちが気の毒に思えるほど。一度とて後ろを振り返る事はなかった。

とりあえず、ありたけの白布で囲まれて水滴を拭われているゆきに、女中のひとりが尋ねた。
「ご装束も濡れておりましょう。お取り替えしたいのですが・・・」
にわかに言葉に詰まる。ここはほとんど男所帯で貴人女性の身につけるような衣が無い。
城には大奥があり、そこには奥女中達もいるのだが、今や主たるはずの慶喜は与り知らぬで近寄りもしない。
そこは大奥という名称で存在はしているものの、全くの別の統制による一個の世界と言ってよい場所であった。
というわけで、そこから衣装を持ってくることもできない。
「気にしないでください。このままで大丈夫・・・っくしゅ!」
気丈にも微笑ってみせた神子は健気だが、やはりこのままでは風邪を引かせてしまうだろう。
「粗末なもので申し訳ありませんが、衣をお持ちしますので」
言うと、自分たちの持つ衣装の中でなるたけ良い衣を貸し出そうと女中達は散っていったのだった。

再び、ひとり部屋に残されたゆきは、自分を包む白布を畳もうと肩から下ろす。
そこで、いつもの装束の白では無い濃い色が目に入った。
(そうだった・・・)
東屋に避難したものの、寒さに凍えるゆきを見かねて慶喜が差出したものだった。
(男の重ねていた衣など・・・って言ってたな)
とすれば、一番上の羽織は雨避けに使ったのだから、その下に重ねていたものだろうか。
(あれ?そういえば慶喜さん、どんな格好をしていたかしら)
記憶を辿れば、しがみついた背と、すがった着物の裾に、名を呼ぶ顔を思い出した。
(あれ?え・・・っと、私ってば何をしているの!?)
思い返せば、あってはならない振る舞いしか出てこない。
(~~!どうしよう・・・)
記憶の中の振る舞いに頬が赤くなる。羽織った衣をたぐり寄せて顔を隠した。
その衣から少し苦くて渋みのある香りがした。鼻腔を刺激する香りは香辛料を思わせて、だけど後からやってくるのは深くて強い甘い香り。
これは、彼の匂いだ。
八葉達も、それなりの身分の者が多かったし、特に年長者たちは何らかの香りを纏っていたのを覚えている。
瞬や龍馬はどこか清涼感を感じさせる爽やかな香りがしたし、チナミと総司は鼻につかない程度の微かな甘い香りがした。
高杉とアーネストは、個性的だけれど落ち着くようなとても良い香りを纏っていたし、小松と桜智は甘いのと甘く無いので正反対だけれども、共にどこか華やかな香りがした。
リンドウも、近づくと少し水気を帯びたしっとりと甘い香りがするのを知っている。
どれも、その人の人となりを表すような香りばかり。

慶喜の香りも、やはり彼を思わせた。
出会ったばかりの頃は、素顔も知らず心意も分からず。時折、リンドウを経て伝わってくる言葉は厳しいものが多くて身が竦む思いをしたものだ。
そのうち、直接言葉を交わすようになって、その考えの一端は知る事ができるようになると、彼の特異さを感じた。
奉行であり、あのリンドウをこき使う器量を持った人物だから特別なのは当たり前だけれども。
しかして、予感の通りただ者では無かった彼は、思いのほか懐深いだけでなく、ずば抜けた胆力の持ち主でもあった。
そして、時々とてつもなく甘い。・・・思い返せば、リンドウに対してさえ甘かったと思う。
相反したものが混在して慶喜になっているのだ。
それは、とても不思議なことのような一方、当然のことにも思えた。
(いい匂い・・・)
好きな香りだ、と思った。このまま、香りの中に埋もれてしまいたくなるくらいに。
「・・・こ様」
(ずっとこうして居られたらいいのに・・・)
「神子様!」
呼びかける声が間近で聞こえたのに驚いて、伏せた顔を上げた。
「は、はい!」
「神子様、恐れ入ります。衣をお持ち致しました」
女中が持って来た衣は、それでもさすがは城仕えの女達の品物で、市中の女達が着るものとは格段の差の代物だった。
確かに、少しばかり地味で無難な意匠であったけれど、ゆきにはかえって馴染み易い。
「有難うございます。お借りしますね」
「本当に、このようなものしかご用意出来ず申し訳ありません」
恐縮する様子の女中に今一度礼を告げて、衝立の向こうで袖を通す。帯だけはやはり上手く結べないので手伝ってもらうことにする。
ざわざわと、襖の向こうが騒がしくなったのは着替えが終わろうとする頃だった。
「神子様、失礼致します」
酷く緊張した面持ちで女中の一人が室内に声を掛ける。
「はい、どうしました?」
ゆきが応えると、女中はつかえつつ言い募る。
「その、それが・・・上様が」
「え?」
「あの、とても上様にお目通り出来るような仕度が整いませぬと申し上げますれば・・・。いえ、それは神子様がと言うのではなく、ご衣装が」
「まどろっこしいことはいい。神子、入っても良いか」
慶喜の声だった。
「はい、構いません」
応えて、衝立の外に出れば同じく慶喜が敷居を跨いだところだった。
「なんだ、別に奇妙な出で立ちというでも無し。なかなかに良いではないか」
顎に手をやり笑めば、神子が不思議そうに首を傾けた。
「あの、どうしたんですか?」
「別に。俺はお前がどのような格好でいても気にならないということを確認しただけだ」
「そう、ですか」
「ところで、茶を用意するから訪ねろと言ったが忘れたか?」
忘れては居ないが、こちらはつい先ほど着替え終えたばかりである。
「忘れてはいませんでしたけど、私はまだ着替え終わったばかりで。お待たせしましたか?」
「そうでもない。俺がせっかちなだけだろう」
得意そうに言うので思わず笑ってしまう。
「ふふ。そんなに急がなくても、私、逃げたりしませんよ」
一寸、胸に苦いものが広がったが噛み殺して慶喜は言葉を継いだ。
「それは良かった」
「あ、そういえばお借りしていた衣は今度お返しします。お洗濯して・・・」
「洗濯?まあ良いが、そのようなものを被らせて悪かった」
「そんなこと・・・」
言いながら、ゆきは着物の袖に顔をやって匂いを嗅いだ。
「神子、どうした」
「・・・さっきまで、慶喜さんの衣の香りが移って良い香りがしたんですけれど。着替えたら違う香りになってました」
当たり前ですよね、と言って微笑む。
「この着物の香りも良い香りだけれど、慶喜さんの・・・?」
眼前で笑み深くしている人物に視線で問いかけた。
「いや、香りが移るほど近づいたかと思い返したが、衣を被せて背負ったのだったな」
おかしそうに笑う。
「まるで色気の無い話だが、移り香と言うなら良いものだ」
「・・・!あの、思い出させないでください」
再び、やり取りを思い出してゆきは赤くなる。
「この香り、欲しければいつでも移してやろう。好きな時に訪ねてくるがいい」
「もう!」
恥ずかしさの絶頂で真っ赤になってむくれる姿を見て、愛しいと思う。
質素な着物を着てふくれる女など、本来なら目にも入れないだろうに。
この神子がするならば、どんな姿も言葉も逃さずこの手にしたいと思える。
「さて、本当に茶でも飲むかと言うところだが・・・」
言って振り向けば、再び襖を少し開けて言葉を継ごうとしていた女中が固まる。
視線を上に上げれば、そこには煩い従兄君が立っていた。
「楽しそうなところ悪いですけれど、そろそろ神子殿をお返しくださいませんか」
「なんだ、リンドウ。戻ったのか」
思い切り嫌そうに眉を顰めてやると、リンドウが小さくため息をつく。
「何ですか。戻ったら悪いわけ」
「いいや。後で報告を聞こう」
「リンドウさん、お帰りなさい」
「ただいま、神子殿。それで、慶くんはいつお茶を出してくれるの?」
「・・・お前に飲ませる茶など無い」

くだらないやり取りに、心に灯った炎を紛らわせる。

(あのひとの香りが好きだ・・・)

(残り香ではなく、捉まえておけたなら・・・)

脳裏に浮かぶのはきみの顔と香。

【終】

(2012-10-28up)

うだるような熱い夏の午後だった。

「お外に出ると、少し涼しく感じますね」
「そうだな」

この日、江戸城に龍神の神子を召した慶喜は、政務の間に神子の世界の話をするやら、神子の手習いを世話するやらと一時の逢瀬を楽しんでいた。
小煩い星の一族の従兄君は、用事を言いつけて使いに出したばかりである。
神子に対して不思議な執着を持っている慶喜だが、それが過度なものでは無く、大抵がリンドウの仕事終わりを待つ間に神子と話をして、リンドウが戻るやいなや暇を許すと言った態度を崩さなかったこともあり、周囲も特段とこの逢瀬に神経を尖らせる事は無かった。

今日もひとしきり仕事を片付け、後はリンドウの帰りを待って神子は帰そうと考えていたところだった。
いつになく残暑は厳しく、座敷の奥深くにこもっていたのでは、どうにも暑い。
襖から障子まで、戸という戸を外して、だだ広い江戸城にあっては風の通りも良い方だろうが、涼を求めてふらふらとやってきたのは、本丸を過ぎたあたりの奥まった庭だった。
大きな池には、ささやかだが小川が流れ込んでいる。
「慶喜さん、ちょっと池の傍まで行ってきていいですか?」
「落ちぬよう、気をつけろ」
苦笑しながら返事をしてやれば、それは嬉しそうに神子は微笑み縁側から庭へ降りた。
こういうとき、彼女は年相応の愛らしい少女に見える。それは、神子であったとしても何も変わらないのだ。
城中、詰め所近くだからか、いつもなら厭になるほど連なる護衛も今日は少ない。
水遊びに興じる少女を眺めて過ごすなど我ながら暑気にやられたとしか思えない所行だが、悪くないと慶喜は一人ごちた。
やがて、神子がこちらを振り向いて手を振る。見ているとそれは招く手つきに変わった。
腰を浮かしかけて、また考える。たかが17歳の娘に手招かれて歩み寄る将軍というのも滑稽な姿だろう。
だが、悪くない。
「どうした?」
「ほら、見てください。大きな鯉がいます」
「・・・鯉など、昔からずっと居るぞ」
「私、初めて見ました」
「鯉を初めて見たのか?」
「いいえ、鯉は見た事あります。でも、こんなに大きいのは初めてみました」
「そうか」
「すごく綺麗ですね。私、鯉って黒か金色しか居ないと思っていました」
「そう・・・か」
噛み合っているようで噛み合ない会話をしていると、神子はその場に座りこんでしまった。
「ここは、水が近いせいか涼しいですね。少しここに居てもいいですか?」
居る事はやぶさかではないが、如何せん、庭の真ん中に座り込んでいるというのはさすがに不謹慎すぎる。
慶喜が答えあぐねていると突然小さな悲鳴があがる。
「きゃぁっ」
「っ、神子!?」
池の中の鯉が跳ねて水を飛ばす。慌てて神子を見れば背けた顔の左頬に水の玉がいくつも浮かんでいた。
「大丈夫か、神子」
「は、はい。驚いただけです。冷たくて気持ちいいくらいです」
何を誇るのか、拳を握りしめてにっこりと笑いかけてくる。
慶喜は軽くため息をついた後、手を伸ばし、神子の頬を拭った。
神子は、びくと肩を震わせるが抵抗はしない。身体はきちんと首元に手をやられた時の反応をしているのに、そこに警戒心が無いのはどういうことだと言いたい気がしたが、今は口をつぐむことにする。
「まだ、ここに居るのか?」
「・・・あ、もう少しだけ居てもいいですか?」
「仕方が無いな」
見上げてくる神子に微笑みで承諾をする。しかし、見上げた空に雲が増えてきていることが慶喜は気になっていた。
「後少しだけだ。雲が集まってきているから雨が降るかもしれん。ここは少し母屋から離れているから戻るには・・・」
「あ・・・」
遠くで雷が鳴る。
「来るな・・・」
言うや否や、急速に黒い雲が集まりどんどんと空は暗くなる。
そして、あっという間に空を覆い尽くした雨雲は大粒の雨を落とし始めたのだった。

あまりの雨の強さに、まともに目を開けているのも難しい。
「やむを得ん。こちらだ」
両手を胸の前で組み、立ちすくむ神子に手を伸ばす。ちらと見やると、その手はすぐに絡められた。
しばし庭を歩き、たどり着いたのは庭の中程に設えた東屋だった。
夕立であろう。1~2時間をここで雨宿りするのはやぶさかではないが、出来れば早く屋内に戻りたい。
だが、如何せん母屋から離れすぎている。
「っくしゅ」
案の定、小さなくしゃみが聞こえた。
全身ずぶぬれになった神子は、雨に打たれて毛が張り付いた白い猫か何かのようだった。
しばしすると、のろのろと手を伸ばし、装束の水を絞りはじめる。
ひとしきり自身の装束の水を絞り終えると、こちらを向いた。
「慶喜さん、着物は・・・?」
言うや否や、手を伸ばしてくる。さすがに面食らって押しとどめた。
「よせ、お前がそんな真似をする必要はない」
「でも・・・」
「気にされずとも自分で済ませた。これでもこういった事は得意でな」
「あ・・・」
笑みを向けてやれば、何か思う所があるのだろう神子も微笑む。
「まあ、俺は万事がこなせる男だと自負している」
「ふふ、そうでした」
言っている事は、ささやかな男の意地っ張りか傲慢にも聞こえかねないのに、それに答える神子の声は甘い。
媚びているわけではなく、ただそのままに受け止めて柔く相手を持ち上げるから心地よい。
だからだろう。彼女に話しかけずにいられないのは。
「っくしゅ」
再び、小さなくしゃみが聞こえた。
蒸し暑い夏の日とは言え、全身に水を被っては身体が冷えもするだろう。
「神子、これを被っていろ」
羽織の下にまとっていた衣を手渡した。それなりの反物で織られた衣装を重ね着しているのだ。重ねの下はそれほど濡れてはいない。
「男の重ねていた衣など不満はあろうが堪えろ。水滴くらいは拭える」
「あの、不満なんて・・・」
何か言いたげなのを押しとどめる。
「思ったより長引きそうだ」
先ほどから降り続ける雨は、止む気配を見せない。黒い雲は厚く空を覆ったままだった。
「こんな時に限って、誰も傍に居ない・・・」
いつもは、うっとおしいほどに付きまとっている護衛達も、今日に限って何をしているのか。
雷は鳴り続け、時折眩しい閃光が東屋に入り込む。
先ほどから、ずっと黙り込んでいる神子に目を向けると、彼女はただじっと空を見つめていた。
「どうした?」
「雨、やまないかなぁと思って」
「そういえば、お前は雷を怖がらないのだな」
すると、問われた事が分からないと言った目でこちらを見る。
「雷が恐い・・・ですか?」
「ああ。大抵の女は女中連中まで揃いも揃って騒ぐものだ。水戸でもそんな調子で、大奥あたりなど煩くてかなわん」
「そう、ですね」
少し考える様に目を伏せる。
「怖い時もありますけれど、今は平気です。綺麗だなって思ってみていました」
「なんだそれは」
何も言わずに神子が微笑んだ。
「お前は、不思議な女だ。良くわからん」
「そうですか?ただの女です。みんなと同じです」
ささやかな会話の合間に、雨が小降りになる。これ以上ここに居ても仕方が無いと判断して腰を上げた。
「慶喜さん?」
「神子、このままでは陽が落ちて面倒な事になる。母屋まで人を呼びに行くからお前はここに居ろ」
「え?」
「まだ雨も強いし、距離がある。脚をとられて怪我でもしたら厄介だ」
「それなら慶喜さんだって・・・」
「俺は大丈夫だ。万事がこなせる男だからな」
軽口をたたいて安心させてやろうという心づもりが無かったとは言わない。
しかし、もの言わず羽織の裾を握りしめる神子の手が震えているのに気付いてしまった。
「どうした、神子」
「あの、一人で行かないでください」
「急に何を言う。ここに二人で居続けるのは得策ではない。聞き分けろ」
「駄目です」
「お前が行くというのは却下だ。方向も分からないだろう」
「・・・」
ただ、無言で裾を握る神子にいつもと違う気配を感じて、裾を握る手に手のひらを重ね向き合う。
「どうした、ゆき」
少女の名を呼んでやれば、はっとしたように顔を上げる。
至近距離で見つめ合うと、その瞳に薄い膜が張っているのが知れた。
「ひ、一人で行かないでください。怖いです」
「どうした、急に」
「ごめんなさい、でも一人でここに居るのは怖いです」
さっきまでの朗らかさはどこへ行ったのか。
「・・・雷も怖くはないと言っていただろう」
半ば気付いているくせに、念を押すように聞いた。言わせたいと思った。
「雷は恐くありません。でも、慶喜さんと離れて一人になるのは怖いです」
雨に打たれたからではない、何か冷たいものが背筋に走るのを感じた。
どうして、この神子はこんな言葉を紡げるのだろうか。

「それでも、ここに残るは得策ではない。来い」
握った手を引いて横に立たせると羽織を脱いで手渡す。
「乗れ」
「えっ・・・」
そのまま背を指し示すと、神子が明らかに動揺する。
「お前は残るのが厭だと言う。二人でここに居るのも得策でない」
「でも、私も一緒に歩いて・・・」
「雨避けになるものが俺の羽織しか無い以上、分かれて歩くのは具合が悪い。お前を背負って頭から被れば丁度いい」
「そんな、私はいいですから」
「神子・・・」
頑に唇を引き結び見つめてくる少女にもう一度声を掛けた。
「ゆき、俺を困らせないでくれ」
ぴくりと打たれた様に肩を震わせた神子は、目を伏せて、しかし素直に背に手をやってきた。
顔が酷く赤い。
先ほど気付いたことだが、神子は自分の名で呼ばれることでより強く反応するようだった。
なるほど、役職で呼ばれるよりも名で呼ばれる方が心に響く気がするのは分からないでも無い。

もちろん、それだけが理由ではない事も薄らと感じてはいる。
だけど、今は胸に仕舞い込む。

神子を背に負い踏み出すと、背で、緊張に強ばった身体が身じろいだ。
濡れた絹を介しているからか、じんわりと広がる温もりと感触が生々しい。

「まったく、お前は俺を操るのが上手い」
「え、そんなこと・・・」
「気付かずにしているなら、なお良い」

立場上、そうなるべくして与えられたものが多かった。
それは、地位であり、物であり、人であり・・・多くの女性たちもだ。

そうするようにと言い含められてやってきた女達との、分かりやすいやり取りも楽しかった。
そこに、思うままに言葉を投げて、彼女らを困惑させるのも一つの酔狂で楽しい遊びだった。

しかし、彼女は違う。
決して与えられない前提の女は、思うままに言葉を投げて己を困惑させる。
これをとことんまで追いつめて囲いこんでしまったなら、彼女はどうするだろう。
怒るだろうか、泣くだろうか。はたまた喜ぶだろうか。

恐らく、そのどれでも無いと思わせることこそが、彼女の面白さであり、惹かれて止まない理由のひとつであると、自分は知っている。

盲目に彼女に捕われることを良しとする者もいるが、それでは真髄には近づけない。
囲うか囲われるか。
神子が知らずに広げる途方も無い慈愛の手のうちをかいくぐって、さらに大きな慈しみを持って囲うことが出来たなら、恐らく新しい道は切り開かれるだろう。
心の底から敬い慈しみ合う、そんな絆を得られるのだろう。

「あ、灯りが見えました」
「よし、着替えたら俺の部屋へ来い。茶を淹れてやる」
「慶喜さん、気が早いです。それに、お茶くらい私だって・・・」
「言うな。俺が淹れたいのだから気にするな。それに俺は」
「万事がこなせる男・・・だからですか?」
「ようやく分かったか」
「はい。分かりました」

ようやく、近くの母屋に着くと神子を背から下して、慌てて駆け寄る女中達に預ける。
同じく集まり群がってきた侍従達を手で追い払うと、手ぬぐいを片手に廊下を突き進む。
真っ青な顔で近侍が追ってきた。
「このような雨の中、大層ご不快な思いをなされたことでしょう。どうか平に・・・」
「いや、非常に面白い経験だった。たまには貴殿らも良い仕事をする」
「はっ・・・」
嫌味と受け取ったかもしれないが、それでも構わない。
実際に嫌味も混じっているし、思った事は事実だ。

この雨で、使いに出した従兄君も足止めをくっていることだろう。
これ幸いにと、茶の算段をしつつ室へ向かったのだった。

 

【終】

(2012-08-13up)

「……というわけだ」
「はい」

眼前で、神妙な顔をして相づちを打つのは龍神の神子なる少女である。
いつからか、目付の邸で駕篭を待つ間に、龍神の神子と言葉を交わすのが常となった。
年頃の娘が、面白くもないだろう政やら世情の話にうなづいている。
はじめは、すぐに飽きるだろうと適当に話したのだが、真面目に聞き入る。それどころか、時折こちらも驚くような開明なことを言うものだから、今では、聞かせて反応を見たいとすら思う自身がいるほどだ。
しかして、今日も龍神の神子、蓮水ゆきは湯のみを手にしたまま、こちらを見上げてうなづいていた。
律儀なもので、湯のみを手にしておきながら、こちらが話し終えるまでは決して口を付けない。
瞬きすら忘れたのではないかと思うほど静かに佇んでいる。
「神子、そろそろ退屈になってきたのではないか?」
「いえ、そんなことないです」
問いかけると、湯のみから茶をひと口含んだ後、微笑みとともに返された。
「つい、政のこととなると熱く語りすぎるな。近侍らなど話して幾らもたたぬ内に厭な顔をする」
冗談めかして言えば、そうなんですか?と笑う。
「当の自分がそろそろ飽いてきた」
「それなら、違う話をしませんか?」
構わないと目線で告げると、神子は言葉を継いだ。
「小栗さん、頭巾を被って動き回るのは窮屈じゃありませんか?」
「そうか否かと問われればその通りだが、仕方があるまい。顔を晒すことは出来ないのだからな」
「大変ですね」
「立場も役目もあるのでな」
「もし、今日一日好きな事をして過ごして良いと言われたら何をしますか?」
「それはまた…」
愚にもつかぬことをと思ったが口には出さない。神子自身は何も含みは無いのだろう。好奇心に満ちた目でこちらを見ている。
「では…」
くだらないと思えど、江戸の為、粉骨砕身働く神子をたてて答えをかえす。
「釣りでもするか。糸を垂れて気長に待ちながら書でも読もう」
「素敵ですね。私は山で落ち葉を集めて焚き火をしようかな」
「火遊びか。頂けないな神子」
「それじゃあ、私も小栗さんに着いて行って釣りをします」
「なんだその答えは。ならば、馬に乗って遠駆けに出るか。神子、お前は馬は乗るのか?」
「何度か乗ったことはありますけれど、ひとりで駆けさせるのは無理です」
「そうか」
「小栗さん、乗馬は得意ですか?」
「それなりにはな」
「それなら、私に乗りかたを教えて貰えませんか?」
「構わんが……」
言って言葉を切る。
「これは、仮定の話なのだろう?」
「そうですけれど……」
真実残念そうに見つめてくる。
「情けない顔をするな。他には何かあるのか?」
やむを得ず話を向けてやると途端に花がほころぶ様に笑む。
「それじゃあ、本当に”もしも“の話をしましょう」
「何だそれは」
「私は、竜宮城に行ってみたいです」
「そういうことか。ならば……」
口にしようとして詰まる。簡単に言うには重すぎる現実が頭の中に鎮座している。
「小栗さん?」
「……もし、叶うならばこの国を出て、広く世界を見聞したいものだ」
「留学したいってことですか?」
「そうだな」
もしも、この身が徳川家のものでなく、ただの小栗忠慶としてあったならば。
「ただの一介の武士だったなら、すぐにでも飛び出しただろう。町人であれば日銭を稼ぎ、釣りをして絵を描いて暮らす」
再び、眼前の神子は神妙な面持ちとなった。
「小栗さんは、今の立場が嫌ですか?」
「嫌ではないさ。これが天命だからな」
「私も、時々ですけれど町のお茶屋の娘だったらどうだろうって思う事があります」
「お前が茶屋の娘か」
「小栗さんは、一介の武士ですか?」
しばしの沈黙が場を支配する。
「もし…、お前は茶屋の娘で、俺は一介の武士であったなら」
「はい」
「出会ったなら、どうであろうな」
「そうですね……」
少し悩む素振りを見せたあと、神子は晴れやかに言った。

「今と変わらないです。きっと、私は小栗さんのことを好きになると思います。本質は変わらないですから」

その“好き“にどれほどの意味も無い事など、知っていながら。
ゆっくりとした鼓動が己を脅かす。僅かに心が痛んだ。

「まあ、すべて仮定の話。つまらぬ戯れ言は忘れることだ」

この場限りの、泡沫の言葉遊び。己に言い聞かせる様に繰り返す。
駕篭が来たと、呼ぶ声がした。

「お話しして下さって有り難うございました。帰り道気をつけてくださいね」

変わらぬ微笑みでお前は言う。
もしも、本当に嘘偽り無く、真の心を見せたならば。
お前は何と言うのだろう。

「ああ、お前も気をつけろ」
「小栗さん、また明日」

心の奥底に沈み込んだ真の心を見せたならば。

 

【終】

(2012-07-11up)

ひとは、心ひとつの夢で、如何なる苦難も越えて歩いて行くことができる。
例え、今は先が見えず独りきりの道のりであっても。

水面に映る自分の中に、答えがあることをお前は知っているのではないか?
ならば、求める答えを得るまで、揺れる思いは隠して行くといい。

そもそもが、”龍神の神子の利用”など、目付の進言を容れて始めたこと。
神子自身への興味は全く無かった。

ある日、リンドウ邸で迎えの籠を待つ間に、幾つか言葉を交わした。
殆どはたわいの無い話だったが、神子がポツリと溢した言葉が気になった。
「小栗さん、夢とか…希望ってありますか?」
「さて?そなたこそ夢や希望に溢れる年頃ではないのか。」
いつも表情に乏しく、微笑みもさやかな少女は、確かにその時、自嘲の表情を浮かべた。
「私は、多分たくさんあります。あったはずなんです。」
江戸の浄化もようやく軌道に乗り始めた時だ。そのような時ほど、積もり積もった思いに悩む事もある。
本来なら、我が配下の目付殿や八葉として付き従う星の一族が慮ることだろうが、呆れたことに当代の星の一族達は、みな自身のことで手一杯だった。

本心を言えば、利用したいと思う者に踏み込むことは具合が良いことではない。
まして、相手は龍神の神子を名乗るうら若い少女。
やり方を誤れば、秘中の毒のように使い手の心身を蝕むだろう。
生半可な覚悟や並の神経なら、絆されたあげく牙を抜かれて、誤った道を選びかねない。
しかして、自身が並の神経の持ち主であるとは露ほども思ってはいない上、何故かその時は、神子と話を続けてもよいと理屈の外で感じた。
「私には、夢…成さねば為らぬことがある。これを希望というかは分からない。だが、必ずやり遂げねばならないという事は分かっている。」
「必ずやり遂げねばならない…?」
「いわば、使命か。私が此の世に生を受けるに足る理由だ。」
じっと、目を合わせたまま話を聞いていた神子が、俯き目線を外す。
「そんな風に、自分をきつく縛るのは苦しくありませんか?」
「さて、分からぬな。心ひとつで、いかなる苦難も越えて歩み続けることが出来るのは人だけだ。それに、己の中で答えは出ている。」
「小栗さん…。」
「私は止まらぬよ。苦しかろうと、そうでなかろうと。」
「ええ。そうですね。」
目付殿…リンドウの言う通りなら、今まさに身を削り前進しているだろう神子は、穏やかに微笑んでみせた。
皮肉なことだが、この神子はリンドウの思う通りにはならないだろうと、その時悟った。
少女の目は己の使命を知り進む者の瞳で、その決意を翻すことは出来ないことは、私が一番良く分かっている。
多数を導く者は、時に孤高で無くてはならない。
誰も横に居なくても、己が使命を貫き通すためには、後ろを顧みることはできないのだ。

ただ、同じ高みにある自分なら、この神子の孤独と苦悩を理解できる。
同様に、神子なら私の苦悩に気付き寄り添うてくれるだろうか?

帰りの駕籠のなかで、そんなことを考えていた自分に苦笑する。
ああ、やはりあの神子は秘中の毒であった。
予想以上に回りが早い。
骨の髄まで溶かされぬよう、用心しなければ。
己が運命まで操られ、ひとつ残らず奪われているのにまだ気付かない。哀れな目付殿を思い出し震えが走った。
まったく恐ろしい。

目付殿は、庭の池を見て泣く神子を哀れだと嘆いていたが、私はそうは思わない。
水面に映る自分の中に、答えがあることを彼女は知っているはずだ。
ならば、求める答えを得るまで、揺れる思いは隠して行くといい。
白龍の神子、彼女はそれが出来る女だ。

『慶喜さんは、慶喜さんにしか出来ないことをやってください。』

淀みなく告げた彼女の目に迷いは無かった。

「神子も、神子にしか出来ぬことをやることだ。」

この瞬間、確かに通じるものがあったと言うのは勝手だろうか。

長い夜は明けて、必ずや晴天の空の青の下、微笑う神子の姿が見られるだろう。

最後の戦いに赴く背に確信した。

 

【終】

(2012-05-10up)